鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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1946年の手稿では「数十点」を「無事に接収」したとするだけでその明確な数量は示64点ーあるいは約60点ーのうち2点が行方不明で回収できなかった,とするもののほ都に落ち着いた山田のもとに“GHQまで出頭せよ”との陸軍美術協会の解散事務所からの連絡が入る。急ぎ上京,かつての同協会事務所であった住喜代志(陸軍美術協会の事務担当者;報告者註)宅を訊ねたところ同所には藤田嗣治が仮寓していた。藤田との話で委細を承知した山田はGHQのOfficeof Chief Engineer (OCE)に出頭,そのままCombatArt Sectionに配属されて「日本の戦争記録画の一切を可能な限り蒐集処理する」任務に従うこととなる。GHQが作品の保管場所として東京都美術館の中央五室ー山田の記すところでは四室ーを接収したのもこの頃であるという。作業は東京近郊を手始めに,やがて弘前,秋田,仙台から岐阜,熊本等へと接収範囲を広げ,最後の締めくくりが前年夏にソウルに隠匿保管してきた作品群の回収であった。CombatArt Sectionの責任者アンダーソン大尉に随伴して山田が朝鮮に赴いた時期と期間は,5月初めから四十日間とも6月初めから二週間ともいい,手稿によって若干の誤差がある。またソウルにおける隠匿作品数と回収作品数についても,されておらず,やや詳細な数値をあげる1975年(頃)の手稿においても,隠匿した約か「(隠匿した)六十八点は只一点の損傷があったゞけで悉く集められた」と記すものもあって,データは必ずしも一定していない。ソウルから戻った後,山田とアンダーソン大尉は接収作品を木枠からはずしてカンヴァスのみの状態にし,都美術館の壁面に掲示する作業に忙殺された。いそぎ展観可能な状態にしたのは,その年の秋にGHQ将校団の総見分が予定されていたためであり,作品を画布のみのポータブルな体裁にそろえたのは,やがてそれらをアメリカ合衆国に送り,他国の戦争美術作品とあわせて大規模な戦争美術展をニューヨークその他の都市で開催する心づもりが,マッカーサー以下のGHQ司令部にあったためであるという。ほどなく前者は実現し,後者は米ソ関係の悪化から計画を大幅に縮小して,全接収作品をアメリカ本国へ送致するにとどめるという現実的なかたちに落ち着いた。CombatArt Section最後の専任将校アンダーソン大尉が帰国したのは9月のことで,その後山田は同セクションの残務整理をして過ごしたらしい。最終的に「これ等戦争記録画の全部が一応」アメリカに運び去られた時期を山田は「昭和23年であったか」と記しているが,現在知られているかぎり,GHQ技術部の手により作品が撤去され展示室の接収が解除されたのは1951(昭和26)年の7月以降だから,この部-412-

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