鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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つ。分はおそらく体験ではなく離職後の伝聞にもとづく山田の推測だろう。ところで,このようにして都美術館に集積され米国に持ち去られた戦争画の総量はおよそどれくらいであったのか。山田のあげる数値は,1946年現在の記述において「相当多数」「眼前に凡そ二百点」,また1975年(頃)の回想では「国内で集めたものと併せて約120点(だったと記憶します)」「国内収集を併せると総数百二十点を超えていた」「総収容二百点にも及ぼうか」とまちまちで,その幅は概数を云々できる範囲を超えている。「山田リスト」は二つあるが,データとしては一個のものと見なしてよい。ひとつは他方の下書きメモと見るべきもので記載作品と通し番号は過不足なく一致している。その記載作品は151点。「山田リスト」(完成稿。以下「下書稿」の但し書きがない限り完成稿を指す)では通し番号の途中に四つの区切りが設けられ,全体が五つの部分に分けられている。「下書稿」ではこの段落ごとに「第〜室」の書き込みがあることから,これらはおよそ都美術館内での部屋割りをあらわすものと考えられる。ただ,今のところその根拠は明らかではない。運び込まれた作品を片はしから処理,掲示していったのだとすれば,通し番号の近い作品群は元米同一箇所に収蔵されていた可能性があるし,また,ある機会ーたとえば上述のGHQ将校団による総見分ーに備えて全接収作品を一斉に展示したのであれば,その際に何らかの基準による類別がなされていたとしても不思議ではない。ともあれ,作者・作品名ともに不明の作品が通し番号の途中に存在することから,リストは作品の移動が困難な会場設営終了後に作成されたと見るべきだろ続いて「中川リスト」(中川氏の自筆ではないTBS作成のリスト。以下但し書きがない限り同リストを指す)の検討に移る。作成された状況については冒頭で触れた。同リストの特徴は,作品ごとに付された通し番号と備考欄の記載にある。リストの全体は前半と後半に分かれており,前半部,51点の作品に用いられているのはすべて六桁の通し番号(うち一点は番号のみで作者・作品名は脱落)で,作品ごとに変化する部分は下三桁まで。後半部の38点(それ以外にく鶴田吾郎落下傘部隊のパレンバン降下〉が無番で欄外に追加されている)の通し番号は,三桁と二桁の数-413 -

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