字がハイフンで結ばれたものでハイフン以下の二桁は53に統一されている(ただし画布二枚から成る<藤田嗣治南昌空港爆撃〉のみハイフン以下ABとなっている)。ランダムに散乱した原簿の通し番号を昇順に整理すると,前半だけで103個の脱落番号があるのに対し,後半のそれはわずかに1個。番号脱落は前半部に集中している。前半部の通し番号は最小値が301039で最大値は301192。脱落番号まで勘定に入れればその対象とする作品の総数は154点ということになる。いずれにせよ,組作品の数え方によって生じる誤差を考慮すれば,この数値は「山田リスト」のあげる総数151点に限りなく近く,また「東近美リスト」に記載された153点,返還に先立ってアメリカ側が示したとされる155点という数(「戦争記録画の経緯」註記『戦争記録画修復報告1977』東京国立近代美術館1978年3月)にはさらに近い。三つのリストを貫くこの150数点という数は偶然の一致によるものとは考え難く,それぞれの対象が相当程度重なり合っていることを示唆している。「中川リスト」後半部に記載された作品39点はそのほとんどが「山田」「東近美」両リスト中の作品に同定可能であり,またそうである以上,これらは前半部の通し番号総数154点(あるいは備考欄に“二点連作”との注記がある<301192藤田嗣治マライ半島シンガポール付近の夜襲〉を2点と計上して155点,さらに後述の理由(*印参照)から「山田リスト」1番のく出動する船舶兵〉が「中川リスト」六桁番号の301038番に充当する可能性を考慮すれば156点)の作品と別個に存在したとみなすよりも,むしろ前半部の脱落番号中に含まれていたと考えるべきだろう。ちなみに,後半部の備考欄のほとんどすべてには“米空軍博物館”との書き入れがあり,若千の誤記(空欄のものや“米軍博物館”とあるもの)も含めて,000-53の通し番号を持つこれら39点の作品はライトパターソン空軍基地内の米空軍博物館管理下にあったものと考えられる。一方,前半部の作品では備考欄に米国内での保管場所を明記したものは見られないが,それらが上記空軍博物館の所蔵品でないとすれば,中川氏の証言等から,リッチモンドの米国防省特別軍需物資倉庫に保管されていた米陸海軍管理下の作品群ではないかとの推測が成り立つだろう。おそらく,後半部のハイフン混じりの通し番号は米空軍博物館が整理に用いた番号で,前半部の国防総省が管理下の全作品につけたとおぼしき六桁の整理番号とは別系統の分類であったのではないか。また,「中川リスト」前半部,つまり米国防省特別軍需物資倉唐に保管されていた-414-
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