鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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と推測される作品群の備考欄には,全51点中40点の作品についてそれぞれの接収元,つまり日本国内における(都美術館に集められた作品であればそれ以前の)最終所在が記入されている。元になったとされる中川氏提供の二つのリストにはこれに類する記述がない。リストを提供するにあたって中川氏は,その内容を当時東京国立近代美術館に在職中であった河北倫明氏と相談しながら詰めるようTBS側に依頼しており,あるいは河北氏の調査によるものかとも考えられるが,今のところ委細は不明である。ちなみに『三彩』(1946年10月)の消息欄によれば,「記録画,戦争画の終戦当時の所在は」「陸軍省構内7点,遊就館4点,陸軍士官学校内13点,予科士官学校内12点,幼年学校内13点,岐阜高山市に7点,青森弘前市に23点,熊本市に3点,神田陸軍倉庫に17点,上野美術館に12点,総数121点(内空襲,炎焼,終戦どさくさで40点は焼失)であり,海軍関係は鎌倉に疎開中であった。「中川リスト」備考欄の記載によれば,大本営より接収された作品が14点と最も多く,海軍美術館の8点がこれに次ぐ。以下,朝鮮ソウルにて接収されたものが6点,陸軍倉庫4点と続き,陸軍兵学校,靖国神社,高山市にて接収された作品がそれぞれ2点ずつ,東京都より接収,向井宅にて接収が各一点ずつとなっており,これは上記「三彩」に計上された作品の一部と考えられる。大本営は戦時下に大本営が置かれていた後の自衛隊市ヶ谷駐屯地内の施設を,海軍美術館はおそらく原宿にあった海軍館をそれぞれ指すものと思われる。後者は江田島の海軍兵学校一現在の海上自衛隊第一術科学校一教育参考館であった可能性もあるが,同館には戦前からの所蔵美術作品が現存しており,さらに旧・海軍館壁画の一部をも後に受け入れていることから,敗戦直後に所蔵品を散逸した海軍美術館は海軍館と見るのが妥当だろう。大本営から接収された作品は全部陸軍関係のものでく301128寺田タケオ硫黄島〉を除くすべてが陸軍の作戦記録画。海軍美術館から接収された作品はほとんどが海軍の作戦記録画だが,中に2点ーく301148猪熊弦一郎東ビルマでの鉄道建設〉とく301152ビルマ侵攻作戦の開始進撃する戦車隊高田正二郎〉一の第二回陸軍美術展(1944年3月)出品作が混じっている。上記二箇所ともそこから接収された作品の初出展覧会にはばらつきがある。朝鮮ソウルにて接収というのが山田新ーが隠匿保管に尽くした前述の作品群であることは間違いない。山田がいう60数点の全貌にはなお遠いが,く301039小磯良平日・ビルマ調印式〉<301040田村孝之介ガダルカナルジャングル中の決別〉-415-

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