⑯ 東大寺南大門金剛力士立像の研究研究者:大和文華館学芸部次長1 はじめに東大寺南大門の国宝木造金剛力士立像は鎌倉時代,建仁3年(1203)に造立された8メートルを超えるわが国最大の木彫像の一つであり,躍動感に満ちた力強い表現は新時代の清新な時代精神を象徴している。この巨像がわずか69日の驚異的なスピードで造られたこともよく知られているが,長い間の風雪を経て損傷が進んできたので,昭和63年(1989)11月から平成5年(1993)4月の5カ年度にわたり世紀の大修理が行われ,詳細な修理報告書も刊行されるに至った(注1)。修理中に得られた学術的成果は①巨大木彫像の制作方法,②大仏師四人の分担制作,③造像を支える大勧進俊乗房重源ら阿弥号集団の実態,等大略3点に集約されるが,その間,修理時の新知見が研究を推進させ,②の運慶・快慶・定覚・湛慶の大仏師の役割分担に関する活発な論議が今日提出されている。修理関係者の間においても若干の意見の相違が明らかになってきたので(箪者は当時奈良県技師として仁王像大修理に参画した),特に①の問題点について整理し,あわせて紙数の許す限り②についても触れてみたい。仁王像は阿呼二耕から構成され,門に置かれて悪敵を退散させる役目を持つ。東大寺南大門では阿叫の位置が通常と違い左右逆であり,しかも門内で向き合っている。この安置形式について計画の変更があったことを主張するのは故松島健氏(当時文化庁主任文化財調査官)である(注2及び3)。松島氏は仁王が向かい合うのは計画時は通例のごとく南面して(正面向き)安置することが進められたが,その中途において何らかの事情が生じ,門中央に向かい相対する安置形式へと変更され,阿叶互いに向かい合わせになったと説明する。そのため表現の修正が必要になったとし,後述する(第4節)ように修正理由に関する氏独自の見解へと発展する。西川新次氏(当時修理委員会委員長)は南大門の設計段階から向かい合わせに置かれることは明白であった筈という立場からいくつか例証をあげ,「阿呼両像を通常とは逆位置に,しかも東西に対向させて祀る計画は,おそくとも建久5年に中門二天王2 安置形式(前奈良県教育委員会文化財保存課主査)鈴木喜博-429-
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