石川啄木や土岐善麿,その他への影響ローマ字表記の芸術作品はいつ頃から見られるのであろう。ローマ字表記による短歌は,平野万里や吉井勇たちによって,はやくも1906(明治39)年には雑誌『明星』で発表されていた。字で書かれた文学中の白眉であろう。ただ,この日記は長い間公けにされず,戦後になって初めて日の目を見たのであった。啄木がなぜ日記をローマ字で書いたか,つまり『ローマ字日記』執筆の動機としては複数考えられ,外的要因として啄木が執筆から約ーか月半前に発刊された『方寸』(羅馬字・特別漫画号)に刺激を受けてローマ字を用いたとすることは,啄木研究者のなかから指摘されている(遊座昭吾『石川啄木の世界』八重岳書房・1987年など参照)。啄木研究から見れば,彼の内的要因が重視されるのは当然であろう。ここではその点に深く立ち入ることはよそう。ただ,「ローマ字ひろめ会」の運動の盛り上がりと共にこの『方寸』(羅馬字・特別漫画号)も少なからず芸術家たちにローマ字使用の面白さを伝えた事実は忘れるべきではなかろう。1910(明治43)年にはローマ字ひろめ会から土岐哀果(善麿)がローマ字による短歌集『NAKIWARAI』を刊行している。『方寸』にも詩を掲載している北原白秋を日本語とローマ字で併記している。さらに7年後の1918(大正7)年にはその『思ひ出』のローマ字本を上梓している。パンの会の仲間木下杢太郎にしても『方寸』(羅馬字・特別漫画号)にローマ字による詩「湖とウィスキイとのアレンジメント」を寄せているほか,1912(明治45)年1月号の『文章軋界』の裏表紙に「HANAを載せている。大正になると本の装禎やグラフィックな作品を中心に美術家の間でもローマ字を好んで使うようになる。同時に,英語やフランス語,ドイツ語などが使われる頻度も多くなっていくのであるが。そこまでの例は一々あげないが,ローマ字に関しては,竹久夢二が積極的にその効用を発揮させ,絵入り小唄集『どんたく』(1913年・装禎は恩地孝四郎)や月間ハガキなどで試みることでノスタルジックな雰囲気を醸し出している。また,『方寸』の同人の一人である山本鼎の甥の村山愧多のスケッチブックやデッサンにはしばしばローマ字の使用が認められる。おそらくさらに調べればかなりの数の例証が得られるであろう。WO HOJIRU HITO(鼻をほじる人)」というローマ字による題字を伴ったデッサン1909年4月3日から主に2か月間書かれた石川啄木の『ローマ字日記』は,ローマは1911(明治44)年に詩集『思ひ出』を出版しているが,その際に,詩集のタイトル-34 -
元のページ ../index.html#44