鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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5分の1であったが,これから仁王像の完成された勇姿を思い浮かべることが可能だ拡大計算によって実寸法が分かる手順があり,それは豊富な経験と大胆な~断を要す巨大な仁王像を69日という短期間で造り上げたのは,基本設計が十分に~られていった筈である。それは注文主(公家僧侶)の検分のため,また制作者側にとってもエ房組織内の意見統一を図るために必要不可欠であったのでないか。雛形の縮尺率が東大寺四天王のように十分のーであれば,数値の置き換えはいまでこそ分かりやすいが,それなら机上で十倍に拡大した数値が実際の寸法になるのだろうか。巨像製作のマニュアルは,南大門仁王像を見ればわかるように,上半身か下半身よりもいかつく,いびつな感じで大きく,頭大・短足であることが造形の基本である。このゆがみこそ,下から見上げる効果をねらったものである。巨像造りのマニュアルは何であったか。雛形制作の場合,それなりに巨像としてのプロポーションが計算されて形に表れるのであろうか。修理中に帥美術院が制作した仁王像の構造模匁!は縮尺ろうか。『明月記』に載る四尺の四天王本様について振り返ってみれば,公家の検分に供せられたのだから,雛形はそれ自身で小世界を構成する造形美,特に頭鉢の均衡美を追求したものであったといえないか。雛形を十倍大きくすれば,巨像のプロポーションが単純に割り出せるというのではなく,雛形から巨像への転換はなにか特殊なるものではなかったか。たからともいえるが,一方には現場サイドの判断が短時間で下され,創意工夫して実行できる態勢下にあったのであり,一気呵成にことを進める能力が工房に備わっていたことでもある。仁王像のエ房組織はそれだけ熟成していたと考えられる。以上のような状況を理解すれば,西川新次氏がいう「像を立てて見た上での大胆な修正」は,巨大像の造像の一般的な作り方ではなかったかと想像され,視線を下げ,謄を下げて重心を低くする行為は「巨像制作における必然的な修正」といえるべきものと,筆者も考える次第である。これについて奈良・金峯山寺仁王像(延元3年/1338康俊・康成作)の例を見てみると,この像の謄の位置は腹部中央,即ち腹部の張りのいちばん強いところにある。このことは金峯山寺像を引き合いに出すまでもなく,等身大(2メートル前後)の仁王像に一般的な特色であり,大胆にいえば腹部中央に謄を刻むものなのである。357センチの大きな多禰寺仁王像の場合も同じである。南大門仁王像の修正以前においても,実は腹部中央のいちばん張ったところに謄が刻まれ,修正後に下腹部へ下がった-434-

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