鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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(3)) 現南円堂広目天像と湛慶なったのである。それに付随して,現南円堂四天王像の方は東金堂あるいは北円堂の伝来という二説が提示されている(注9及び10)。結論から先に述べると,筆者は現南円堂四天王像は北円堂伝来であり,鎌倉初期,運慶工房の作の可能性が高いと考えており,それは南大門仁王像に敷術する問題になるので,その理由を以下に記す。南円堂四天王像は現状,持国天が朱,増長天が丹,広目天が緑青,多聞天が青黒色によって肌の色を塗り分けている(注11)。これを通常の大仏殿様四天王の方位と肌の色との対応関係(東=緑,南=赤,西=白肉色,北=青黒)に当てはめれば,現持国天像(朱)は増長天(南),現増長天像(丹)は広目天(西),現広目天(緑)は持国天(東)であり,現多聞天(青黒)は変更なし(北),という名称と方位の訂正が想定できる。昭和63年及び平成元年度の2ヶ年にわたり本四天王像は彩色剥落止めを主とした修理が実施されたが,この時に広目天の岩座の台木の右足柄孔から「東一」の墨書が見つかった(注12)。台木は後補であるものの,この墨書は本台座の使用時の心覚えとすれば,「東ー」は持増広多のまず第一に名前があがる東方天,すなわち持国天の符丁と考えられるのである。このことは現広目天を元持国天とする推測に有力な根拠を与えるものであろう。これを前提に現南円堂四天王と興福寺曼荼羅(京博本)の北円堂四天王の形制を比較すれば,次の通りである。① 現持国天は右手に剣,左手を剣身に添えるが,その姿は増長天と一致する。② 現広目天は左手に戟をとり,右手は右腰脇に構えて拳印を結ぶが,右手は後補であり,もしこれに剣を持たすとすれば,京博本と図様が一致することは特記される(現状の右手は剣を持たす貰通孔がない)。③ もし現持国天が北円堂の広目天の位置に廻るとすれば,京博本との相違が問題になるが,実は戟をとるのが片手(現南円堂像)か,両手(京博本)かの小異にすぎないともいえる。南円堂四天王がもと北円堂伝来ではなかったかとする推測は他に用材の選択の一致等があるが,それは注記にまわす(注13)。以上のことを踏まえ,北円堂の鎌倉初期復興像を改めて考えてみると,承;元二年(1208)法印運慶が惣大仏師となって指揮した運慶工房は,中腺台座の銘記によってその実態が明らかであり,各像担当の頭仏師がわかるのは重要である。すなわち,四-436-

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