注(1) 『東大寺南大門国宝木造金剛力士立像修理報告書』(東大寺発行文化庁・奈良(2) 松島健「東大寺金剛力士立像(n牛形)の構造と製作工程」(『南都仏教』66号(3) 松島健「東大寺金剛力士立像(阿形)の構造と製作工程」(『南都仏教』68号(4) 西川新次「七百九十年目の甦りその尊容と平成修理の概要」(『仁王像大修理』(5) 山ロ・阿弥陀寺仁王像の調査は西川新次,松島健,鈴木喜博の三人で行った。(6) これについて箪者は未整理のまま触れたことがある。(7) 松島健「そして一本の檜材に寄木造り彫刻の構造と技法」(『仁玉像大修理』(8) 田辺三郎助「仏師運慶について東大寺南大門仁王像を中心に」(『武蔵野美術』天王分の頭仏師は「東方法眼□□西方法橋康弁,南方法橋康運,北方法橋康勝」とあり,東方天の判読しにくい仏師名は湛慶の可能性が高いという。とすれば,これまでの現南円堂広目天を北円堂持国天とする比定が十分に納得のいくものであれば,現南円堂広目天像は湛慶が担当したという推論に導かれる(注14)。事実,本節の冒頭に述べた南大門呼形像の顔つきが現南円堂広目天像に近いという感慨は,つまるところ,湛慶の個性を摘出する作業の第一歩であり,また湛慶を指導した運慶の影響力の度合を推し量るところでもあるのである。要するに南大門呼形像を担当した大仏師の個性が北円堂持国天像(現南円堂広目天)の頭仏師の造形感覚に素直に通じる意義をここに再び強調し,南大門仁王像の工房組織の史的展望について新たな視点が提示できるのではないかと考える次第である。(すでに紙数制限を越えているので,快慶風とみる阿形像の問題点の整理は別の機会に記すことにしたい。)県教育委員会編集平成5年3月)<平成8年10月発送〉東大寺教学部平成3年10月)東大寺教学部平成5年3月)朝日新聞社平成9年4月)鈴木喜博「仁王像が嗚いた東大寺南大門仁王像の修理経過」(『仁玉像大修理』朝日新聞社平成9年4月)朝日新聞社平成8年4月)107号平成10年<1998〉1月)-437-
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