鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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大帝のことも忘れ,ただ呆然と魔女の邸宅の正面に描かれた壁画に見とれるばかりとなる。その絵をボイアルドはこうエクフラシス(作品記述)している。《娘が一人海ぎわで/生き生きと表情が描かれて/まるで喋るように見えるのだ/彼女は人を海辺に招き入れ/全員獣に変えてしまう/人の姿は剥ぎとられ/狼,ライオン,猪に/熊になる者,羽根のはえたグリフォン獣になる者たち。そこに船がやってくる/そこから出てきた騎士は/奇麗な顔と素敵な声でもって/この娘の愛に火を点ける/鍵を彼に与えるらしいが/その下には例の飲物/それでこの女は多くの/男爵を獣に変えたのだ。次の絵では彼女が/この男爵に寄せる大きな愛に眼が眩み/自分の術に欺かれ/魔術の杯を飲みくだし/白い鹿に変身した/その後彼女は狩りたてられたが/(チルチェッラと彼女は呼ばれた)/彼女が愛したかの男爵は後悔する》(注4)。この絵を見ている円卓の騎士自身は逆に軽率にも毒薬の虜になったのだという物語の本筋に鮮やかに対応するエピソードである。チルチェッラとはイタリア語のキュルケ(Circe)を指す語に敬語的人称語ellaを加えたもので,「キュルケ姫」といったニュアンスだろうか。この物語内物語が,自分で毒を飲むキュルケの姿を描いている点をパルミジャニーノ素描と関連づけたハッテンドルフは基本的に正しい。だが彼女がこの連作素描を「チルチェッラと男爵ドレは先の拙訳における「後悔する」と解するべき動詞であって,名前とは考えられないのである。第2節で見るように古典に精通していたボイアルド伯がキュルケの名前を括弧付きで示唆しておきながら,一方でオデュセウスないしユリシーズという古典の名前を,そのような縁遠い言葉にあえて改名するとは考えられないのであり,読者の知識への暗示に留めたのに相違ない。美術史家クラウディア・チェリ氏もまた名前とは考えられないと述べられた。ともかくパルミジャニーノの二素描はポイアルド的「キュルケとオデュセウス」の物語に大筋で対応する。唯一の相違は,オデュセウスが決して「後悔」はしてない点であり,これは後述する。さて上記した古典典拠では,力で魔女を征服する点を強調し,その後の二人の懇ろぶりについては奇妙に口を閉ぎしている。ポイアルドはその暗示された感情的部分を取り出して,魔女の悲恋の物語を創作した。ボイアルドの物語は,古代においてすでにフルゲンティウスやプロティノス,ヘラクリデス・ポンティクスに端を発し,ボッカッチョらを経て,果てには16世紀人ロドヴィコ・ドルチェにいたるまで散見できるシ(Dolesi)」という題に改めることを主張するのは事実誤認である。このDolesiと-441-

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