鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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(1530年2月4日)に際しても,教皇に同行していたジベルティを経由して皇帝の肖キュルケ=オデュセウスの物語への注釈,つまり筆者の調べえた限り一般に「神のカに訴えて理性的な自分を保ち続け肉欲を圧するべし」という教訓のみには還元しない。またさらに古くは聖アウグスティヌス,16世紀ではジャン=フランチェスコ・ピコ,コルネリウス・アグリッパやジャン・ボダンといった人たちが魔術批判の際にキュルケを「毒薬魔術(Arsvenefica)」の象徴として糾弾していた事実,さらにまたジョルダーノ・ブルーノのような魔術の守護神として讃美するといった正反対の受容の仕方とも対比的である(注5)。力で征服せず,また恐がりもしない。愛というまったく別種の「術」で魔女の術を封じ込める。フェミニスト的視点でこれを批判することも可能だが,筆者の関心はむしろ,何故パルミジャニーノがボイアルド的キュルケをこの素描で取り上げたのか,その歴史の具体的力学にこそある。この「恋する魔女」の悲喜劇を同時代的・同空間的な文化的視点のもとに見直すとき,ハッテンドルフはおろか,これまでの研究者が看過してきたパルミジャニーノの制作環境の一端が垣間見られるというのが筆者の主張である。この二素描は様式・技法的に美術史家たちによってポローニャ滞在期(1527後半〜1531年)のものとされ,筆者自身もそう考えている。ここでパルミジャニーノのボローニャ期の環境について一瞥しておこう。彼は1527年春の「ローマ略奪」以前にはローマにいた。ヴァザーリによれば教皇クレメンス7世とその腹心ヴェローナ枢機卿マッテオ・ジベルティ,さらに彼らに近しくも問題を引き起こして止まなかった文芸人ピエトロ・アレティーノとも接触した。そしてボローニャにおいては神聖ローマ皇帝カール5世の載冠式像を描く栄誉を受けたし,このころにはアレティーノからの注文も受けたという(注6)。けれども老檜な宗教人ジベルティの思想やあるいは享楽的なアレティーノの文学とパルミジャニーノを関連させてみる実験はほとんどなされていず,また筆者自身その影響関係に疑念も抱いている(注7)。けれどもローマでジベルティの秘書を務め(従ってパルミジャニーノとある程度似た環境にあった),カール5世載冠式の際にも同行した「バーレスク詩の王様」,「笑いの詩人」フランチェスコ・ベルニは,筆者なりの歴史的実験を許す余地,そして器を備えていると思われるのである。トスカナ語で「平易で」「読みやすく」そして「陽気な」詩,すなわち風刺的でかつ時に爆笑を誘う文学世界を我々に残してくれたこの詩人は,アレティーノとも互いに敵対しつつ,『反詩人対話編』(1526年)のような己の仕事の(宗教的確信に比して-442-

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