したとき明らかになる。ベルニとはぼ同時期に『恋するオルランド』に手を加えて出版したロドヴィコ・ドルチェや,ミケレ・ボネッリがそのドルチェ版本にさらに手を加えて出版したものでは,筆者の調べた限り,Sとfの印刷違いや句読点などに微妙の変化はあっても,ボイアルドの文法を遵守しているのであり,一方ベルニの「書き直し」を執拗に批判したアレティーノが書いた小品の詩『オルランディーノ』ではそもそもこの逸話自体扱われていない(注9)。もちろんベルニとパルミジャニーノの直接の影響関係の実証は困難である。だが同時期のクレメンス7世宮廷周辺で生き,さらにボローニャで相目見えたかも知れない二人が,ほぼ同時期にボイアルド的キュルケの物語を「描いた」という事実は,何らかの接触があったことを想像させてやまない。ベルニの「書き直し」ではキュルケは最初から美しいと強調され,またオデュセウスも事後に後悔したりしない。これは確かにパルミジャニーノのキュルケの衣装のヴァールブルク的「pathosformeln」の美麗さやその四肢の優美さ,またオデュセウスの無関心さとも類似する感情なのである。ボイアルドとベルニ,その他上記した以外のおびただしい思想家や詩人たちの言及,さらに多くのキュルケ図像の詳しい解釈については筆者の来たるべき研究にまかせ,ベルニが残した女性讃美の詩を引用しよう。その感情はボイアルド,ベルニ自身,そしてパルミジャニーノのキュルケに共通して感じられてやまないのである。16世紀の多少の知識を持った男が女に対して抱いた幻想は現代の脆弱な我々にとってあまりに生々しい生命力に満ちている。《(前略)変なことに思えるだろうが/言っても良いだろう/不完全な本性から始まって/(女は)良きにつけ悪しきにつけても極端の域を/女の本性が超え出てしまうのだ,道化の力を持ち/例えば一本足や/二つ頭の,手が三本の人を生む/斑の馬や白斑の犬をさえ。女はそれ自体不完全な動物/不完全なのは道具/いやこう言ったほうが良いかな,素材と対象/豊潤さと欠乏とのそれが不完全なのだと/この二者ゆえ怪物と呼ばれる/何かに飛び抜けた女は/怪物的生命と呼んで良い……(中略)……激しい力と熱情を持つ/君ら女はこの詩を/読むか聞くかしているだろうね/君たちは怪物,彼女(物語中の女傑マルフィーザ)はど賢〈はないけれど/君たちは醜くないし,そんなことは言えない/そうではなくて愛,美徳,愛らしさを持つ/最も美しい怪物,最も甘い怪物》(注10)。-444-
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