鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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2〉年7月刊行)それに歌集『桐の花』(1913く大正2〉年1月刊行)をさす。問題に立入った議論をする必要もないが日本の文字が1段名交りの漢字にルビ附きで永久清まされるものとは決して思はない。」といっているように,彼らもまた現状の日本語で満足していた訳ではない。芸術家として日本語を使ってどの様に表現していったらよい結果が得られるのかといった真剣な試みがこの『方寸』(羅馬字・特別漫画号)でなされたのである。そして,そこでは,北原白秋や木下杢太郎らのローマ字をちりばめたエキゾチックな詩が生み出されたのと同程度にハイカラな情調の視覚的画面作りが成功しており,日本近代美術の興味深く面白い筋道がつけられた。「ローマ字ひろめ会」の運動と同列に扱うことはできないにしても,『方寸』のローマ字号の発行は,これはこれで美術のグラフィックな側面でのローマ字の面白さを日本中に浸透させていく第一歩を記したことに間違いはない。北原白秋の初期詩歌集の装禎・挿絵ここでいう北原白秋の初期詩歌集とは白秋が「パンの会」を舞台に活躍し,その時期に多くが制作され,その後,まとめられた詩集『邪宗門』(1909く明治42〉年3月刊行),『思ひ出』(1911く明治44〉年6月刊行),『東京景物詩及其他』(1913く大正先に『方寸』の人々がローマ字表記によって雑誌にそれまで見られなかった新鮮さを出そうとしたことを指摘した。とくに石井柏亭らを中心とした『方寸』の画家グループと北原白秋らの文学者グループが一緒になって「パンの会」が結成されたわけだが,大筋において新しい耽美的な芸術を目指そうとしていた点では共通の認識を抱いていたにも拘らず,やはり絵画の写実性を重視していた石井柏亭や山本鼎らと東京を言葉で写実的にとらえもしたといわれもするが,やはりロマン的な主観が横溢した詩歌を作り上げた白秋とでは,「パンの会」結成時から,自ずと芸術観やその表現の志向に隔たりがあったことは否定できぬ事実である。北原白秋の第一詩集『邪宗門』の装禎と挿絵は,「パンの会」の仲間である石井柏亭や山本鼎さらに木下杢太郎らの協力によってなされたことが知られている。北原白秋や木下杢太郎と『方寸』グループが協力して生み出した「パンの会」の創作物として,先にあげた『方寸』(羅馬字・特別漫画号)とこの北原白秋の『邪宗門』が代表例と呼べるものであろう。ただ,詩集『邪宗門』は,パンの会の仲間意識による麗しい友情が文学と美術の結-36 -

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