鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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⑱ 南蹟派研究—熊斐を中心として一一17年12月24日に,唐通事職である内通事小頭見習となり,これ以降唐人屋敷に出入し1 熊斐の作品10年後,37歳の制作である。つぎは宝暦4年(1754)の《清泉白鶴図》(神戸市立博年(1766)に制作された《芦雁図》(個人蔵)がある。以上,制作年の明確なもの研究者:長崎県立美術博物館学芸員伊藤晴子はじめに熊斐(神代甚左衛門:1712-1772)は,享保16年(1731)に来朝した中国の本格的画人沈鈴(号南藤)に直接師事したことで知られる。その後多くの門人が熊斐のもとから出,沈鐙の画法は全国に展開していった。しかし沈鈴と日本における南蹟派を結び付けているこの熊斐については,江戸絵画史上,沈鈴の正統な後継者としての評価にとどまっている(注1)。本稿は,熊斐の現存作品の調査を基に,熊斐の画業と,南禎派との関係や当時の長崎画壇における位置を探る中間報告としてまとめた。熊斐は,はじめ唐絵目利の渡辺家のひとりについて画を学んだ。沈鈴米朝後の享保沈鈴に直接師事したと推測されている。享保18年9月18日の沈鈴帰国後は,享保20年に来朝した高乾に三年師事したという。官職としては元文4年(1739)に養父神代久右衛門(白石窓雲)の跡を継ぎ内通事小頭となり,明和3年(1766)に稽古通事となるにおわった(注2)。熊斐は,多数門人を擁していたが,作画活動については,唐絵目利などの本業ではなかったこともあり不明な点が多い。熊斐の作品は,現在,約40点が確認されている。多数が,花鳥を描いた着色画で,虎,蟹などを描く墨画は10点弱である。年記のある作品のうち最もはやいものは,李用雲風墨竹画の《勁節凌霜之図》(長崎県立美術博物館蔵)であり,寛延2年(1749)になる。熊斐が内通事小頭となった物館蔵),墨画の《菊雁来紅図》(個人蔵)である。そして,尾張の徳川宗勝侯より,長崎奉行菅沼下野守,町年寄薬師寺右衛門をとおして熊斐に注文された《鵬鷲取魚図》(徳川美術館蔵)は翌年宝暦5年の年紀をもち,《花鳥図屏風》《猛虎震威図》(ともに同館蔵),《一路功名図》(神戸市立博物館蔵)も,同じく尾張徳川家注文によるもので,同時期に制作されたと考えられている(注3)。晩年の作品としては明和3-451 -

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