鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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は,宝暦4年(熊斐42歳)前後に集中し,若年に制作されたものはみいだせない。(1) 印章について年記のない作品を含め,印章について,作品を実見したものを中心に分類すると,まずA群として,「熊斐」(白文方印)「繍江」(朱文方印)〔図1〕を落款の下に捺す,宝暦4年制作《清泉白鶴図》,《登竜門図》(長崎市立博物館蔵),《波に鵜図》(東京国立博物館蔵),《柳下鵜図》対幅,《雪中鷹図》(ともに長崎県立美術博物館蔵)など多数をしめる。しかし同印文の精巧な贋印も今回の調査で確認出来,A群の図版での確認は困難であることが分った。つぎにB群として「熊斐印」(白文方印)「澳聰氏」(朱文方印)〔図2〕を捺す《柳下鵜図》(長崎市立博物館蔵),《水墨花鳥図屏風》(長崎県立美術博物館蔵)などがある。そしてC群に「熊斐之印」(白文方印)「繍江」(朱文方印)〔図3〕の,寛延2年制作の《勁節凌霜之図》,《梅花双鶴図》(長崎県立美術博物館蔵)があげられる。同印文のC群に「熊斐之印」(白文方印)「繍江」(朱文方印)の《月下蟹図》《柳鴨図》(ともに神戸市立博物館蔵)がある。D群は,「熊斐印」(白文方印)「i其贈」(朱文方印)の《一路巧名図》(神戸市立博物館蔵)〔図4〕がある。れ,さらに他作品には見られない印章が捺されている。遊印については,「遊於藝」(朱文長方印)「興到筆随」(白文長方印)の2種が占める。印章,遊印からは,作品の編年を行うことは,現時点では不可能である。当時,熊斐の作品は入手困難であった沈鈴作品の代用としての需要であったことが指摘されている。江戸に南禎派の画法を伝えた宋紫石は宝暦4年の4年後に来崎し熊斐に師事し,与謝蕪村が沈鈴に傾倒していったのも宝暦7年以降のことといわれ,宝暦4年頃前後,南禎派が全国展開を見せていることが注目される。ここから熊斐の現存作品が,尾張徳川家からの発注前後の作品に集中するのではないかとの推測が生まれるが,今後の研究の課題としたい。徳川美術館本《花鳥図屏風》六曲一双(全12図)には,A群·B群•D群が含ま-452-

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