なるように感じられる。そこで,逆のぼり熊斐が当初学んでいたという唐~•渡そして,徳川美術館にのこる熊斐への注文書の写しのなかの,《花鳥図~に言及する部分に「極彩色」に対し「極中彩色」という語が記され,これは「兼工帯写画」を指していると考えられる(注5)。徳川美術館本以外の熊斐作品もみていくと,「兼工帯写画三十幅」のうち,8点類似するモチーフを描いていることがわかる。以上から熊斐の筆を中心とした一連の作品は,沈鈴の画技の内のひとつであり,沈鈴から熊斐への画技の教示不足による結果ではないことが示されているのではないだろうか。つぎに着色方法について,沈鈴と熊斐の比較をおこなう。鶴を描いた作品群は,沈姪にも,熊斐にも数多くみいだせることから鶴を画題とした作品をみる。沈鈴の《双鶴捧寿図》(長崎市立博物館蔵)〔図6〕と熊斐の《清泉白鶴図》〔図7〕の鶴の描法を比較してみると,沈鐙が,鶴の羽の輪郭は細い墨線で描き,胡粉による毛描きで鶴の量感と羽の質感をあらわしているのに対し,熊斐は羽の輪郭を描く墨線を強調し,胡粉による彩色は規則的になされていることがわかる。熊斐の墨線を強調し,規則的な胡粉の付し方については,沈鈴の画法からの展開とも考えられるが,鳥獣の量感を表現する沈鐙と,規則的に描く熊斐とでは,趣向が異辺家の作品を取り上げてみたい。熊斐生誕以前にすでに没している唐絵目利の祖のひとり渡辺秀石の《寿老人図》(長崎市立博物館蔵)の画中に描かれる鶴の描法〔図8〕,また,熊斐とほば‘同時代に活動した荒木元慶の《百鳥図巻》(長崎県立美術博物館蔵)の魏鵡の描法〔図9〕は,ともに羽を墨線で規則的に形づくったのち,胡粉で簡略に彩色している。熊斐の鶴は腹部を綿密に胡粉の細線で描いているのに対し,唐絵目利系統の鶴は,腹部を胡粉で塗り込めている点が異なる。しかし熊斐は,これら唐絵画日利の鳥の描法を基に,沈鈴の画法である胡粉の細線による質感を加えていったと考えられないだろうか。熊斐の他作品を見ると《雪中鷹之図》(長崎県立美術博物館蔵)〔図10〕も,上記の墨線を強調しつつ,胡粉を簡略にもちいて鷹を描いている。さらに同作品の烏の描法以外をみると,薄い茶墨に下地をつくり,その上からさらに濃墨を重ねる樹・法は南禎系のものであるが,その形態と画面における配置は唐絵目利小原慶山の《雪中梅図》(長崎市立博物館蔵)(図11,12〕と共通する画趣をもち,南禎系と唐絵目利系の二つ-454-
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