鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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の要素が画中にみいだせる。当時の長崎画壇においては,唐絵目利が重要な位置を占め,熊斐は唐通事職に従事していたとはいえ,画業は本業ではなかった。そして,小原慶山と渡辺家は,沈鐙日本滞在時に,画を交換するなどの交流をみせ,両者は,熊斐の沈鈴との引き合わせについても何らかの係わりをもっていたと考えられる。沈鈴は,その招聘については,徳川吉宗によるものとの推測がなされているが,来朝時の記録が少なく,現存作品も数例をみるにすぎず,沈鈴の名が,流布するのは帰国後数年経た後であるという指摘もなされている。また,熊斐自体についても,壮年期の作例を特定することが出来ず,宝暦年間前後の活動がややはっきりしている程度である。熊斐は,多分に唐絵目利を意識した画法を壮年期に展開していたのではないだろうか。日本における南藤派の祖とされる熊斐ではあるが,同時に長崎を土壌とした検討が今後必要であると考える。(3) 画面構成について熊斐の弟子である森蘭斎の『蘭斎画譜』をみてみると,沈鐙は熊斐に運筆から学ばせたように,沈鈴自体も筆法に重きをおいていたことが記されている。「書則南藤先生嘗て繍江先生に論する其法に曰,画は一環より起る。是大極に法る環を竪に分れは,半環となる是陰陽雨儀の象とす。是を上下に連ぬ名にて連環とす。(中略)魚鱗の法と云は原ふかくの如く半環を三重して鼎足の形をなす。(中略)南萩先生繍江先生に口授する所の魚鱗の法はんかくの如し。是連環半環相交もの隻化・不側・妙用の法にして生、無窮なり。此法を得されは画をなすとも精神なくして圃経閥の弊をなし卑俗に落て板刻結の病を生す。イ段令精巧衆に秀たるも,いたつらに形を模するのみにして何そ画道を了し,気韻生動の妙を得る事有んや。此法によるときは遠近高低左右前後髪に應し機に随ひ運筆進退自由をなさすと云事なし。或は小を拓て大とし或は大を縮め小とし或は濃淡疎密映帯位置皆この法により各真理に悟ふ事を學得の旨なり。」(森蘭斎『蘭斎画譜』菌部巻二天明2年)と,ここからは運筆について,その遠近前後左右上下の関係をとらえることとともになすことが,沈鈴の画法の特徴としていたことがわかる。沈鐙の実作品を見ると,この魚鱗の法は,鳥獣の瞼から樹法まで応用され,構図の基本構造にも用いられている。-455-

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