⑲ 中国南北朝時代の“小文化センター”の研究ー一徐州地区を中心として一研究者:筑波大学芸術学系講師八木春生成城大学短期大学部講師小澤正人大阪市立東洋陶磁美術館学芸員小林はじめに中国南北朝時代の美術史研究をおこなうにあたって,中央に対する“周辺の美術”というのではなく,それだけで独立した独自性の強い美術,言い換えれば“小文化センター”の美術に注意が向けられたことは,これまでほとんどなかったといえる。北朝では大同や洛陽,南朝では南京といったいわゆる“大文化センター”の美術(しかも仏教美術)だけが注目され,それらによって北朝と南朝の美術の類似や相違,そして両者の影響関係などの問題が語られてきた。また各地の“小文化センター’'は,“大文化センター”のバリエーションであるとしか評価されてこなかった。しかし近年の目覚ましい考古学上の発掘成果により,北朝美術または南朝美術としても解釈できない資料が出土する地域の存在することが,徐々に明らかとなってきた。そのような地域の一例として漢水上流域の二つの地区(漢中地区及び安康地区)に注目した私たちは,平成7年度の鹿島美術財団の助成金を得て現地調査をおこなった(注1)。これら二地区は北朝と南朝の領域のほぼ境界線上に位置しており,歴史的にもその帰属先がしばしば変化したことが知られている。しかし私たちがなによりも注目したのは,漢中地区及び安康地区の南北朝時代の墓葬(画像碑墓)から,多種多様な陶桶が大量に出土しているという事実であった。一般的に,墓室壁面が画像碍によって飾られるのは南朝墓の特性である。だが南京付近の南朝墓から出土する陶桶の数や種類は少なく,作りもシンプルなことが知られている。これに対して洛陽付近の北朝墓では,多種多様な陶桶が大量に出土するけれども,壁面には壁画が描かれる傾向にある。つまり漢中地区及び安康地区の墓葬は,その室内装飾の面においては南朝の,陶桶については北朝の特徴を持つといえるのである。しかも出土した陶桶は,南朝はもとより,北朝のものとも異なった様式や形式を備えていた。そして調査の結果,漢水中流域の南陽盆地地区にもこの両地区と類似した特徴を持つ墓葬群が存在することから,南北朝時代漢水流域地域には,北朝とも南朝とも異なる独自の文化圏が形成され仁-464-
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