ていたこと,しかし詳しく見ると,漢中地区及び安康地区と南陽盆地地区の美術は,完全には同じでないことなどが明らかとなった。そこでこのたびは,中国南北朝時代の“小文化センター”研究の一環として,やはり南朝と北朝の境界に位置し,歴史上しばしばその帰属先が変わり,またいくつかの南北朝時代の画像碑墓から他の地域には見られない特殊な形式の陶桶が出土している江蘇省徐州地区に焦点を当て現地調査をおこなうことにした。徐州は江蘇省の北端に位置している。北側には淮河が流れている。淮河は中国を南北に分ける境界となっており,徐州はその淮河が東シナ海に流れ込む河口部に位置することになる。現在は北京と上海を結ぶ南北にはしる鉄道の動脈である京渥線と,海岸部と内陸部を結ぶ東西の動脈となるド龍海線が交差しており,交通の要衝となっている。「南北の境界」「交通の要衝」という徐州のあり方は南北朝時代にもあてはまる。このため徐州は南朝と北朝の争奪の地となった。南北朝時代初期,徐州は東晋(317■秦と,のべ34年間,東晋時代の3分の1は華北の異民族の支配下におかれた。しかし東晋滅亡以降(420■589年)になると,基本的には北朝の各国の支配下に置かれることになる。南北朝時代のうち徐州が南朝の支配下に入ったのは東晋を引き継いだ宋による420■467年の47年間と,梁による324■325年の1年間のみで,これ以外の時期は北魏,東魏,北斉,北周,隋といった北朝の各王朝に属していた。つまり南北朝時代の徐州は,前半においては南朝の支配下であったが,後半になると北朝の領域となったのである。ただしその間に北朝・南朝の争奪の地になり,支配者がめまぐるしく変わるといった状況であった。漢代より楚王大墓に代表される巨大な墓葬(注2)が数多く造営された獅子山付近を中心として,徐州地区には多数の南北朝時代の墓葬が存在し,そのいくつかは既に発掘されている〔図1〕。しかし残念なことに,それらについての簡報が二つあるだけで(注3)'正式な報告書がこれまでひとつも発表されていない。幸運にも今回の1,徐州地区の歴史及び地理(地図)420)の領域であったが,325■351年は後趙,352■356年は前燕,379年〜383年は前2'徐州地区出土の陶桶について-465-
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