調査では,長年この地区の発掘に携わっておられる徐州市兵馬桶博物館館長王惜氏と,徐州文物管理委員会弁公室副研究員の梁勇氏にお話しを伺うことができた。だが細部においては両者の意見が一致しないこともあり,また記憶が曖昧であるとしてお答えいただけなかった問題もいくつか存在した。そこで以下に徐州博物館及び徐州市兵馬桶博物館において,私たちが自ら調査することのできた陶桶及び画像碑についての考察を中心に報告をおこなうことにしたい。現在,徐州地区出土の南北朝時代の陶桶は,大きく分けて次の5つのグループに分類することができる。第1は,像高60センチの大きな門吏桶のグループで,1985年に獅子山第25墓より出土したものである。図2に示した楠福の鎧を纏う像と完全に同じ形式のものがもう1体,上衣だけで鎧を纏わないという相違点が存在するが,それ以外は大きさも形もほぼ同じもの〔図3〕が2体,つまり合計4体の門吏桶がこのグループを形成している。王館長によると,これらはすべて墓葬の入り口付近にかたまって置かれていたという。第2は像高45センチ程で,彩色がよく残る双髯の女桶〔図4〕に代表される一群である。図5の挟手する男桶などもこのグループに属する。第3グループの陶桶は,第2グループのものよりさらに像高が低く彩色も部分的にしか残らない。このグループの陶桶は,武人桶〔図6〕や騎馬桶〔図7〕,また儀使桶〔閉8〕や撃鼓桶〔図9〕など,どれも形式,様式的に河北省郡付近の北斉墓(6世紀後半)より出土した陶桶と区別がつかない程似ているので,おそらく鄭よりこの地に直接運び込まれたものであると考えられる(注4)。第4は,像高が30センチ程度でやはり彩色が部分的にしか残らないが,北斉ではなく東晋末期及び南朝早期(AD4世紀末〜5世紀初)の陶桶との強い類似が認められるグループ〔図10,11〕。そして最後の第5グループであるが,これに属する男桶(29.3センチ)や女桶(27.4センチ)は,第4の陶桶群とは明らかに手が異なるが,やはり南朝との関連を指摘することができる〔図12,13〕。王館長によると,これまでに発掘された十数基の南北朝時代の墓葬のうち,陶桶が出土したのは3基だけであったという。すると今,便宜的に5つのグループに分類したけれども,実際にはそれらのいくつかは同じ墓葬に埋納されていたことになる。ただし具体的にどのグループの陶桶とどのグループの陶桶が組み合わせられていたかと3'第1及び第3グループの陶桶について-466 -
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