25墓からは,男女侍桶と人面獣身の鎮墓獣が出土し,その鎮墓獣は背中に3乃至4本いう問いに対して,王・梁両氏の説明は,必ずしも一致していない。したがって陶桶を出士した南北朝時代の墓葬が本当に3基だけであったのかという根本的な疑問が解決されないので,正式な発掘報告書が発表される以前にそれらのグループ分けを行うことには問題もある。しかし明らかに作り手の異なる陶桶群が,ひとつの墓葬中に混在していた可能性が高いという事実は大変に興味深い。なぜならこのような例は,北朝にも南朝にもあまり多くは見ることができないからである。1987年度の『中国考古学年鑑』に掲載された簡報によると,〔図3〕の門吏桶が出土したとされる獅子山第の柱状の火炎(おそらく蹴)を備えていることが記載されている。人面獣身の鎮墓獣でしかも火炎状の甑を備えるものは,北魏時代後期から東魏,北斉時代にかけて(北朝の領域で)流行したものであり,南朝には一体も見ることができない。獅子山にある兵馬桶博物館には,合計4本の甑を備え躊鋸する人面獣身の鎮墓獣か展示されている〔図14〕。果たしてこれが第25墓から出土した鎮墓獣であるかどうかを確認することができなかった。だが頭部に戟の形をした角を載せていることから,これが北斉時代後期,しかも郡を中心とする河北地方で流行した鎮墓獣〔図15〕と同じ形式を備えているとして間違いない。この鎮墓獣とともに先に第3グループとして分類した(北斉墓出土のものかと見まがう)陶桶群が展示されていることは,この考えが正しいことを示している。すると,もしこの鎮墓獣が獅子山第25墓から出土したものであるならば,北斉時代に造営されたこの墓葬の中に,第1グループと第3グループの陶桶が一括して埋葬されていたということになる。第1グループ計4体の門吏桶は,すべて墓の入り口付近に置かれていたとされるが,やはり墓の入り口付近に置かれるはずの鎮墓獣との位置関係はどうであったか,他の武人桶や儀使桶などはどのように配列されていたのかなど,多くの疑問が未解決のまま残されている。けれども,この門吏桶がしばしば北斉時代の作品であると紹介されるのは(注5)'上記の推測に間違いがないからだと思われる。問題の門吏桶はどれも中空で,しかも4体ともほとんど同じ大きさであることから,おそらく型によって作られたと考えられる。頭部は別作りだが,これも型による成型であろう。全体的に彫りが浅く,長剣の環首の上に両手を按じ,その長剣左右に上衣の寛袖が八の字を描くようにして垂下している。北朝では,長剣の上に両手を按ずる形式の門吏(武人)桶は北魏時代後期に流行したが(注6)'南朝にはこの形式-467-
元のページ ../index.html#477