鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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の陶桶がほとんど存在しない。ただしこの形式が,南朝においてまったく知られていなかったとは考えにくい。なぜなら南斉時代の画像碍(502)に,図16のような武人像の彫りだされたことが知られるからである。一方八の字形に垂下した上衣の寛袖表現は,南京付近から出土する梁時代の陶桶(6世紀前半)にしばしば見られる形式で〔図17〕,北朝にも寛袖の上衣を纏った陶桶は存在するがその表現形式は,確実に南朝のものとは異なっている〔図18〕。また現在失われてしまっているけれども,筒状の裳裾から突起状の靴先がのぞくという形式も南朝で流行した〔図19〕。しかしこの像の最大の特徴は,像高が60センチにも及びしかも頭部が小さく現代的なプローションをしている点にある。このような像は他のどの地域にも見いだすことができず,それゆえ徐州地区独特の形式であるといえる。大きい方の部類に入る。体部は中空で,頭部と手は別作りである。頭部は明らかに型作りであるけれども,体部は筒袖状の腕部が手捏ねであるかもしれない。また〔図5〕の像の場合,下半身はロクロによる成型である可能性が高い。興味深いのは,ちょうど両手を挟手しているあたり,腹の部分に削られた痕跡が認められることである〔図20〕。おそらく別作りの手と体の間に隙間を作るため,(腹の部分を削らないと別作りの手が腹部につかえてしまい上手くはめ込めなかったのかもしれない)このような処理がなされたと思われる。手を別作りにしたり,下半身をロクロで成型する(或いはそのように見える)などの特徴は,南京付近から出土した東晋〜南朝早期墓出土の陶桶も備えている〔図21〕。また図5の男桶の場合,第1グループの門吏桶が本来そうであったように,裳裾から突起状の靴先がのぞく表現がなされている。この形式は東晋時代以降,南朝の領域で流行したことが知られている(注7)。これらのことから第2グループの陶桶は,東晋時代に南京付近で作られた陶桶の強い影響を受けていたことが理解される。ただし東晋時代の陶桶には,腹の部分に削られた痕跡を見いだすことはできないようである。またこのグループの陶桶のように,目が描かれるのも珍しい。4'第2及び第4グループの陶桶群について図4や5などに示した第ニグループの陶桶も像高が45センチ程あり,陶桶としては第2グループよりかなり像高が低いけれども,南朝早期の陶桶と関連が認められる第4グループを代表するものとして,〔図10〕の男桶があげられる。冠を戴き筒袖の-468 -

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