鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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上衣を纏って両手を扶手するこの像は,体部が中空で頭部は別作り。下半身は〔図5〕の男桶同様,ロクロによる成型も考えられる。特徴的なのは,手を見せず曲線で表現された単純化された腕と,下半身の中央に浅く入れられた幅広の溝である(注8)。この二つの形式を両方備え,様式的にもこれと酷似している陶桶が,南京油坊橋第2号墓より出土している〔図22〕。報告書によるとこの墓葬の造営年代は,南朝早期であるとされている(注9)。南朝では東晋時代,筒袖の上衣を纏った陶桶が主流であり,寛袖の上衣を纏った陶桶が流行するようになるのは劉宋(420年)以降であったことが指摘されている(注10)。つまり第4グループの陶桶が出土したのは,南朝早期造営の墓葬であると考えられ,この陶桶自体は南京からもたらされた可能性があることになる。しかし注目すべきは,やはり下半身に幅広の溝が彫られており,〔図10〕と同じく第2グループに属しているが,それとは様式的に少し異なっている男桶の存在である〔図11〕。両腕を曲げているので本来何かを持っていたと思われるこの桶は,腹の部分が第2グループの陶桶のように,少し削られていた。第2グループとの類似は,この他にも筒状の下半身の底部(裳裾)からのぞく靴の形式などに認められるが,顔の表情において,また目を描くという特殊な技法において顕著である。すると第4グループの中には,第2グループと密接な関係にあると思われる陶桶が含まれていることになり,それは南朝早期に造営されたひとつの墓葬中に,(どちらも南朝系ではあるが)異なる二種類の陶桶が混在していたことを意味している。言い換えれば,この墓葬には南朝早期に南京から直接もたらされた陶桶と,徐州地区で作られた東晋時代の伝統を継承する陶桶が,一緒に埋納されていたことになる(注11)。獅子山第25墓においても典型的な北斉時代の桶(第3グループ)と,徐州地区独自の門吏桶(第1グループ)の二つが混在していたことを考え合わせると,ここに徐州地区の陶桶の埋葬方法にひとつの傾向が認められる。つまり徐州地区では,南朝の領域に属していたときでも北朝の支配下に置かれたときでも,その首都(南京及び郡)で作られた陶桶をわざわざ運んで来て副葬品として用いたのである。このことから,徐州地区が常に大文化センターと密接な関係にあり,大文化センターの墓葬美術の動向を具体的に知り得る状況にあったことが確かめられる。だが北斉より直接陶桶群が持ち込まれた場合でも,それらと一緒に納められた徐州地区製作の陶桶が南朝の影響を色濃く反映していたことから,それらは完全に南朝のものと同じであるわけではないが,徐州地区のエ人たちが伝統的に南朝美術の影響下にあり,それは6世紀後半になって-469 -

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