鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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も変化していなかったことが理解される。の墓葬の副葬品であったならば,そして3基の墓葬から陶桶が出土したという王館長のお話しに間違いがなければ,第5グループの陶桶群が単独でひとつのグループを形成していたことになる。徐州博物館にはこのグループに属する陶桶が現在4体しか展示されていないけれども,倉庫にはまだ数体が保管されていて,それらの中には展示されているのとはぼ同じ大きさ,そして形式を備えたものが存在する。したがってこれらは型作りであることが知られるが,そのうちの一体は,第1グループの門吏桶〔図3〕と同様,長剣の環上に両手を按じており,また長剣左右には上衣の寛袖が垂下している〔図12〕。第1グループの門吏桶とは異なり,裳裾からのぞく靴先表現はなされていないし,第一そのプロポーションが第1グループの門吏桶ほど極端に特殊ではない。だが図12の陶桶を含めて第5グループの陶桶すべてに(胸元中央に稜が立つという)特殊な形式が認められ〔図13〕,しかもこのような形式は第1グループの門吏桶の中にも見いだすことができる(図3'注12)。それゆえ第5グループの陶桶人たちによって作られた可能性があると思われる。第1グループの門吏涌同様中空で,型を用いて作られていることや底部の形が類似していることも,これらが徐州地区のエ人たちによって作られたという推測を補強する。そしてこれまでの考察から,徐州地区から出土した陶桶の特徴として,以下の三点をあげることができる。1,この地区から出士する陶桶には,南朝(南京)及び北朝(鄭)より直接持ち込まれた可能性の高いものと,徐州地区のエ人たち自身によって作られたものが存在する。2' 徐州地区で作られた陶桶だけが埋葬されることもあるが,他地域から持ち込まれた陶桶と徐州製の陶桶が一緒に墓葬に埋納される場合もあり,その習慣は帰属先が変わることで途絶えることはなかった。3'独自性を備えた徐州地区製の陶桶であるが,南朝美術の影響が強く認められ,北朝(北斉)の支配下に入った後もその特徴が失われることはなかった。ただし徐州で作られた陶桶は,南朝の桶とも相違点を持ち,エ人たちは最新の影響を南朝から受けても,それをすぐに模倣しようとはしなかった。5,第5グループの陶桶群について第1.第3グループの陶桶群と,第2.第4グループの陶桶群が,それぞれひとつも6世紀後半,(第1グループのエ人たちとは異なるけれども)やはり徐州地区のエ-470-

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