おわりに徐州地区の南北朝時代の墓葬を飾る画像碑の文様には,唐草,円花文,銭文,幾何学文などが存在することが知られている(注13)。また侍者文様などが見られることもあるが,これらは南京付近でも見られるものである。私たちは,徐州博物館で最近雲西から出土したという南北朝時期の画像碍をいくつか見せていただいたが,その中に輪つなぎ状の5葉のパルメット唐草文様が刻みだされたものを見いだした〔図23〕。猪目形をしたひとつひとつの単位が,交互に上下逆さまに連なっていくその形式は,北朝でも南朝でも類例を見つけだせる。だが雲西付近から出土したその画像碍の文様は,猪目形と猪目形の間に結束帯を持ち,そこから3葉の半パルメットが吹き出すという,他にあまり例を見ない形式を備えていた。そして画像碍の文様についても,徐州地区美術の独自性を確認することができる。はじめにも述べた通り,漢中及び安康地区など漢水流域には「多種多様な陶桶が大量に出土する南北朝時代の画像碍墓群」に代表される,北朝とも南朝とも異なる独自の文化置が形成されていた。「多種多様な陶桶が大量に出土する南北朝時代の画像碍墓群」が存在するという点において,今回私たちが調査した徐州地区も同様である。またこれらの地域のエ人たちに,自らが南朝美術の系統に属しているという意識があるが,南京において見られるのとは異なるものを作った点も共通している。ならば両地方の間に直接的な交流関係があったかといえば,現時点ではその可能性は低いと思われる。なぜなら陶桶においても画像碑の文様においても,両地域間に密接なつながりがあったことを示す証拠が見いだされないからである。徐州地区の南北朝時代の墓葬をなによりも特徴づけているのは,ひとつの墓葬中に徐州製の陶桶と,他の地方よりもたらされた陶桶が一緒に埋納されていたという事実である。とくに第1グループの門吏桶とともに第3グループの陶桶が副葬された墓葬については,(この墓の主人の経歴と関係するのかもしれないが)他地域と比して特異な例であるとせぎるをえない。その当時の帰属先,北斉の首都都から強い影響を受けたことは理解できても,そこで作られた陶桶群がそのままーセット持ち込まれたことや,それにもかかわらずそれらの影響を徐少卜!製の陶桶がほとんど受けなかったことは,この地方独特の現象であると思われる。墓葬内はもっとも保守的な場所のひとつだと考えられる。だか,帰属先の最新流行形式を受容しながら,それとは異なる自らの伝統形式を併存させたこの地方の文化受容の形態は,漢中及び安康地区など漢水流―-471 -
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