(9) 顧蘇寧「南京雨花台区三座六朝墓葬」『東南文化』1991-6, 196頁■148頁,文物出版社,1988年せ部分を表現していると思われる(小林仁『中国南北朝時代における桶の研究』成城大学平成5年度修士論文)。(10) 小林仁『中国南北朝時代における桶の研究』成城大学平成5年度修士論文(11) 上記のように,この墓葬からは像高の異なる二つのグループ(第2及び第4グループ)の陶桶が一緒に出土したと考えられる。後者の第4グループはさらに製作地の違いによって,異なる二つのグループに分類できる。ひとつはおそらく南京より直接もたらされたものであり,もうひとつは,第2グループと密接な関係を持つ徐州地区のエ人たちによって作られたと思われるものである。つまり南京より新しい形式(南朝早期)の陶桶がもたらされたとき徐州地区のエ人たちはそれを模倣しようとせず,そこに自らの(東晋時代の影響を強く受けた)伝統が反映した結果,図11のような陶桶が出現したということになる。(12) この形式を備える陶桶は少なく部県画像碍墓にいくつか見られるだけである。ただし洛陽永寧寺より出土した供養人像の中に,この形式を備えるものがいくつか見られることは興味深い(小林仁『中国南北朝時代における桶の研究』成城大学平成5年度修士論文)。(13) 王惜.祁永生「徐州市兵馬桶博物館北朝和唐代墓群」『中国考古学年鑑1987』147-473-
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