ティシスムも濃厚で,特異性が明らかである。さらに中央におけるアイヌと北海道の連関の認識も,18世紀後半以来の長い時間に培われている。つまり,道内においてはアイヌを描く動機が希薄であったにもかかわらず,内地あるいは中央と相対する北海道という立場に立った時,アイヌが風土の象徴となり得,主題としての魅力を放ったということである。そしてアイヌ風俗を主題とした作品の中央画壇への登場が,殊更に北海道の人々の関心を呼び,喧伝された背後には,特色ある「郷土美術」創造への強い期待感が感じられる。では,道内画壇における風士性重視の傾向とは,いかなるものだったのか。道展の中核にいた人達の地方新聞紙上(北海タイムス)の発言によって確認し,莞彩のアイヌ風俗画制作の背景をもう少し具体的にみてみたい。昭和5(1930)年,能勢真美は「道展が日本美術界の有力なる存在」となり,かつ「異色ある郷土美術の価値を明らか」にすることを期待すると述べ,昭和10年には,今田敬ーが北海道はその自然をはじめ人情や風俗まで洋画的な姿で,洋画の興隆は当然であるとした上で,道内風景等「郷土的画因」(主題)の選択と「北海道絵画的美」の創造を奨励。さらに,広大な北海道らしく,道内各地の地方色の表出をも求めており,翌昭和11年の道展では実際に洋画の地域別展示が実施された。昭和13年,能勢は道内の風景や草木など郷土に画因を求める「道産の日本画」がようやく現れたことを評価し,昭和15年には,今田が莞彩のアイヌ風俗画についても,郷土に取材する態度を評価している。昭和16年,今田は「いたずらな東京依存の風潮を省みる必要が」あり,北海道自身の手によって北海道美術を振興すべきとし,その具体的方法について,道内官設展の開催や美術館建設と並んで,風土に根ざした表現による「北海道派の成立」の重要性を説いている。またこの頃から,「美術における北方精神」(山田義夫)や「道展の北方的精神昂揚」(中村善策)などの言葉にみるように,「北方」という括りで風土をとらえる傾向が強まり,菊地精二が「北方美術には伝統の希薄さを感じさせる反面未開な粗野の中につねに未来的なたくましい暗示を湛えており,これはローマンチックな方向に繋がるものである」と,主題ばかりでなく表現の特色に踏み込み,その展開を促している。こうした風土性重視の潮流はまた,美術の分野においてのみ醸成されたものではなかった。戦時下には,国家主導で郷土への歴史意識の養成が唱えられ,「郷土教育」が展開された(注1)。さらに地方文化運動の高まりも見逃せない。中央の都市文化-483-
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