鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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が輸入文化であり,消費的・享楽的な性格が強いのに対し,地方文化は生活に密着し,「人の心の奥底に横たわる美しく尊いものを失わずに来た」という文化運動の理念(大政翼賛会北海道支部・北海道文化委員会発行パンフ,昭和17年)は,「絵画は如何なる場合にも作家の人格と生活からのみ生まれるべき」であり,「郷土の空気と土が作家の肉体の一部に離るる事なき精神と感度の温床を与える」とする菊地精二の芸術論(北海タイムス,昭和17年)と共鳴するものであろう。北海道翼賛芸術連盟・美術報国会の中心には,莞彩をはじめ,先に名の挙がっている今田・能勢・山田らがおり,戦時下の文化統制として喧伝された風土重視の志向が際めてストレートに,彼らの芸術論にも反映されたと考えられる。上野山清貢と平子聖龍ー中央からの刺激こうした背景の一方で,莞彩のアイヌヘの関心を直接的に喚起したのが,昭和前期,中央画壇でアイヌ風俗画発表に先駆けた北海道出身の画家,上野山清貢と平子聖龍である。札幌郡江別村生まれの上野山清貢(明治22〜昭和35年)は,大正元(1912)年に上京。大正15年第7回帝展から3年連続特選受賞の快挙を遂げ,牧野虎雄の主宰する愧樹社展でも中核として活動する等,一躍画壇の注目を集めた画家である。当時の洋画界の傾向に染まらない感覚的で奔放な表現は,異オと呼ぶに相応しいものであった。道内においても,早くから注目されており,昭和4(1929)年には道展主催の「上野山清貢歓迎展覧会」が札幌で盛大に開かれた他,個展開催や道内美術展への出品等,道内画壇との関わりは深かった。上野山は大正期からアイヌに着目していたといい,昭和8年には旭川でのアイヌ取材が北海タイムスで大きく報じられ,翌年の「上野山清貢個展」(札幌・三越)で帝展出品作等と「アイヌ婦人」「アイヌ犬」が発表された。その後,毎年のように釧路の丹頂鶴取材のため来道し,昭和12年には釧路,屈斜路コタン,日高,平取コタン等に約1ヶ月半滞在,アイヌと同居してその姿を描いた。同年,その作品20点を含む30点を二会場で展覧(札幌・北大学生ホール,札幌グランドホテル商工陳列館),さらに同年の第1回新文展に「盲目の老酋長」を無鑑査出品した。昭和14年にはアイヌや北海道に取材した作品を主として銀座・日動画廊でも発表している。昭和12年の札幌におけるアイヌ連作発表時,北海タイムスは,「我が上野山清貢画-484 -

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