鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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伯はその野心作「老酋長」を提げて問題の新文展へ見参」し,それに先立つ札幌での展覧は「まだ若い「美術北海道」に多くの示唆を投げかけ,秋の話題を賑わすに違いない」と報じた。またここで上野山自身は「誰もが手をつけそうでいて,不思議なほど今までの美術の世界から忘れられていたアイヌに私が芸術的野望を持つようになったのは私が北海道生まれだという理由ばかりではなく,根本的には荒々しい野性に対する私の憧憬がそうさせたといった方が本当でしょう」といい,道内画壇に対して「北海道特有の,力強い自然を生かして,又これを征服して自分のものにしてほしい,自然の迫力に打負かされ容易に固まっているのが現状だと非礼を覚悟して敢えて言いたいのです,因循を排して伸び伸びした明日の“美術北海道”に再出発される様に精進と努力を切望いたします」と述べている。官展作家のこうした動向や発言が,道内画壇にアイヌを絵画の主題として強く意識させたことは想像できるし,莞彩においては,上野山の「盲目の老酋長」と同一人物と思われる「アイヌ男性像」を同じ頃に描いている。ただ,上野山のアイヌヘの向い方は,「南洋ニューギニヤ島の生活を聞いて気持ちをそそられ,出かけようとしたが都合で駄目になり,今度はカムチャッカのギリヤークを狙ってこれも駄目それで結局アイヌに野心の捌口を見いだした」と語るように,故郷の風土への拘りよりも,自身の芸術の主題が,原始的なもの,荒々しく野性的なもの,ドラマティックなもの,エキゾティックなものであることに起因している。アイヌの野性味を強調した表現には,他者に向ける眼ざしが看取されよう。平子聖龍(明治31〜昭和62年)は,増毛郡増毛町生まれで,大正14(1925)年に上京。昭和2(1927)年に川崎小虎に入門,昭和4年の第10回帝展に「アイヌ熊祭」,昭和8年の第14回帝展に「冬の鴨緑江」,昭和18年第6回新文展に「アイヌ部落」を出品した。聖龍がアイヌに関心を寄せた契機は不詳だが,作品にアイヌの風俗を濃やかに描くだけでなく,アイヌの紹介や民族資料の収集に努めており,アイヌ文化に好意的な眼差しを向けている。戦後間もなくには東京・秋葉原のデパートで民族資料コレクションの展示やアイヌ熊祭の実演等を催したといい,昭和31年にはアイヌの風俗等について纏めた「アイヌ民族の栞」(編集•発行/平子聖龍,発行所/癖窟社アイヌ芸術荘)も発行している。なお,同氏収集の民族資料は現在東京国立博物館に所蔵されている。画壇においては,昭和21(1946)年に霧霧社を結成,翌年から東京都美術館で獅籐展(公募展)を主宰し,昭和57年第36回展まで開催した。露霧展は「美術の大衆普-485-

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