及」を標榜し,絵画の他,書道や花道の部等も設けた多彩な内容であった。第1回展から莞彩は入選,翌年の第2回展には莞彩を含む道内日本画家8名も入選しており,「アイヌ室の特設もあり本道的色彩が強い」と報じられた(北海道新聞)。また昭和28年の展覧会評によれば,「平子聖龍氏孤軍奮闘の会で」「会員の出品は未だ幼稚ではあるがまじめさは見られる」という状況であった(『萌春』)。露窟展の戦後画壇における評価はともかく,アイヌ風俗画によって官展入選を遂げる一方,道展日本画部や莞彩らの日本画グループ素月社に客員出品する等,莞彩と密接な関わりを持った聖龍が与えた影響は小さなものではないだろう。中央画壇で活動しながら北海道との関係を持続した二人は,それぞれアイヌヘの視座は異なるものの,その主題としての魅力と可能性を示して道内画壇を刺激した。本間莞彩のアイヌ風俗画伝統的絵画である日本画だからこそ,伝統のない土地で何を描き,どのような美を創造するのかという問題は,洋画より深刻であった。莞彩は,中央の画壇や享受者にアピールする「北方的日本画」としてアイヌ風俗画の連作に取り組んだのである。同じ頃,中央では,若手日本画家が多様な造形的模索や新たな主題の開拓に向かっていた。莞彩がアイヌ風俗画を出品した新興美術院も,昭和12(1937)年に日本美術院を脱退した茨木杉風田中案山子,小林巣居らが中心となって結成した団体で,在野精神を強く意識しなから日本画の新表現を探っていた。そこでは多様な主題と表現を包括しており,表現傾向を総括し難いが,撥剌として個性的であったといえる。莞彩は,中央あるいは内地の伝統的文化にはみられない,北方的主題という個性によって,その「新表現」の一角をなしたわけで,昭和19年の「コタンのメノコ」では佳作に選ばれている。作品の表現については,写実を基盤としつつ,量感に富んだ現実感のある人物描写をしており,造形的に際立った特色はみられない。むしろ,儀式を終えて横たわる女性やアッシを一心に織る女性の表情や姿態の巧みな描写が,微妙な色彩や衣裳の美しさとあいまって,一種独特の情趣や生命感を感じさせる点が新鮮な魅力であろう。また,人物には民族的な容貌の特徴はほとんど看取されず,その顔は娘や知人をモデルにした作も少なくない。そこには,アイヌを和人である画家の側に引き寄せ,感情移入しながら魅力的に描こうとする姿勢も感じられる。それはまた,アイヌの人々への-486-
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