ブールジュの周歩廊ステンド・グラスには,厳密な図像プログラムの存在が推定されていることはすでに述べた。その中で「ヨセフ物語」は「聖トマス伝」(ベイ21)との対応,中央チャペルを中軸として正反対の周歩廊北側にある「ラザロと悪しき金持ちの讐え」(ベイ1)との対応がそれぞれ指摘されている。こうした従来の対応関係に加え,近年新たに「放蕩息子」との対応関係が指摘されるようになった。この関係について考察しておきたい。確かにこれら二つの物語の骨格は類似している。すなわち,父の家からの青年の出発,兄との評い,放浪,父との再会というテーマである。さらに,「放蕩息子」にも「ヨセフ伝」にも,女性による性的誘惑のシーンかあり,「放蕩息子」か誘惑に屈し自堕落な生活をおくるのに対して,ヨセフはこれをきっぱりと退け貞操を守るという,正反対の対応を示す。さらに,どちらの物語にも飢饉が訪れるが,ここでも二人の主人公は対照的に描かれている。「放蕩息子」は飢饉に際して,金もなくまた蓄えもなく,豚飼いに身を落とす。一方ヨセフはファラオの夢から飢饉の訪れを察知し,豊年のうちに穀物を貯蔵させ,エジプト中を飢饉から救う。最終的な父との再会の場面でも,「放蕩息子」は自らの罪を悟り父の元へと帰る決心をするが,ヨセフの父であるヤコブは,自ら息子に会いにエジプトに赴く。双方に共通するのは,父が息子との再会を大いに喜んだという点である。そもそも,その旅立ちにしても,旅立つという事象は共通するものの,事情は全く違っていて,ヨセフは父ヤコブに派遣されて兄たちの元に赴くが,「放蕩息子」は自ら財産の分け前を要求して勝手に旅立っていくのだ。こうして見ていくと,この二つの物語は父の家からの出発で幕が開き,父との再会で終幕となる構造と,その過程で青年が出会う出来事は共通するものの,それぞれの物語のヒーローの行動は常に対局にあるといってよい。「放蕩息子」は罪を犯した者の救済がテーマであるが,対してキリストの予型であるヨセフは模範的な青年であり,それ故神の祝福を受ける。シャルトルのステンド・グラスにおいて,この二つの物語の関連を立証する文献資料は現在のところ指摘されていないが,典礼において四旬節の第二土曜日には,「創世記」第27章の「イサクによるヤコブヘの祝福」という,弟への偏愛を示すテーマが「放蕩息子の璧え」とともに朗読されていることはすでに指摘されている。ヤコブとは言うまでもなくヨセフの父であり,彼もまた兄たちよりもヨセフを愛している。13-493-
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