世紀中頃のオーセールの西正面の腰板部分の彫刻レリーフでは,「放蕩息子」と「ヨセフ」が上下に並んで展開しており,この二つのテーマの強い結びつきを示す。ここで,シャルトルの「ヨセフ伝」と「放蕩息子の讐え」の表現を比較してみると,両者には類似した場面が繰り返し現れている(「出発」,「誘惑」,「宴会」,「父との再会」)。ところがブールジュでは,「誘惑」は「告発」の一部として吸収され,また「兄との凄会」も割愛されている上,ベンヤミンの挿話で物語は集結しており,「父との再会」の場面も見られない。勿論,シャルトルとブールジュでは場面数が違うため単純な比較はできないか,やはりシャルトルではより「放蕩息子」との関連が強く意識されているようである。シャルトルのプログラムをめぐっては,何らかの図像的意図の存在が指摘されながらも,大聖堂全体を包括するような巨大なプログラムの存在には疑問の声も少なくない。しかし,幾つかの窓がある共通のテーマを持ち,それによってある図像グループが形成されている可能性は否定できないであろう。「ノア物語」(ベイ47)から開始される北側側廊では,翼廊部分の「放蕩息子の醤え」までを一つのグループと考えたい。「ノア伝」は洪水の原因である人類の堕落から物語が開始され,また,「エウスタキウス伝」(ベイ43)では改心がテーマとなる。また,「ノア物語」と「聖リュビヌス伝」(ベイ45)はともにワインに関連し,「聖ニコラウス伝」(ベイ39)は司教としての聖人を描き,「ヨセフ」もまたよき司教のプロトタイプであることが指摘されている。「タイポロジー的傑刑」(ベイ37)のテーマは勿論,人類の罪とキリストの傑刑による救いであり,「放蕩息子」にも罪と救いのテーマが現れている。こうした各窓の主題の連関は単線的にとらえられるものではなく,入り組んだ複雑な構成になっているため,全体図の把握は難しい。しかし,窓と窓との間には様々なレベルでの対応関係が存在し,その一つ一つを解きほぐしていくことで,その幾何学構図と絵画的物語叙述の関係をはじめ,ステンド・グラスの持つ様々な問題点を明らかにしていくことができるのではないだろうか。シャルトルの北側側廊では「傑刑」を挟んで左右に,罪人としての「放蕩息子」と義人としての「ノア」,「ヨセフ」が並ぶ構図も浮かんでこよう。さらにこの対置は,「ノア」,「ヨセフ」という旧約世界と,「放蕩息子」に代表される新約世界の対比でもあるかもしれない。-494-
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