作品目録〉を作成した。ただしながらこの〈現存作品目録〉は現在,日本において所蔵されている作品に限られている。その多くが満洲を訪れた日本人画家が満洲において描き日本に持ち帰った作品,または満洲においてモチーフを得て日本で描いた作品である。満洲に在住する画家によって描かれ,満洲でのみ発表された多くの作品については,そのうちのごく少数の作品の図版を当時の新聞・雑誌に掲載された図版を通して知ることが出米るのみである。「在満画家」による作品の所在調査は今後の重要な課題であり,調査を続けたい。もとより,<年表〉<索引〉<目録〉のいずれも,現時点では不完全なものであり,さらに調査を重ね,出来るかぎり網羅的なものにして行く所存である。本報告では,前記調査項目1と2をもとに,日本本国の美術活動の強い影響下にありなから,徐々に形成されていった「満洲美術」を概観したい。とりわけ,1938年(昭和13)に開設された官設展覧会である「満洲国美術展覧会」(国展)を中心に考察を進めたい。国家と美術との関わりのありようについて問い直す糸口のひとつがここにあると考えるからである。画会展が団体展としてはじめて満洲(大連・奉天・長春)を巡回したこと〔後に,グループが存在したことなどが記録に残されているのみである。ほかにどのような活動がなされたかは今後の調査課題としたい。期,日本の資本が満洲に急速に投下され,満洲は活況を呈した。この時期の情況を画家鶴田吾郎は次のように記している。満州匡が建設され始めると,画家もまた作品を携えて売りに出かけ,それは新政府の要人になった知己を訪ねたりして紹介をもらい,次々と売れてゆくので一部の画家にとって満州は楽土のような存在となっていた〔鶴田:128〕美術市場が未成熟な段階でありがちな,ゆがんだ情況であることがわかる。にもかかわらず,満洲美術はく一歩前へ出て〉行こうとしていた。1932年,<満洲に於ける画家(アマチュア)を殆ど網羅し〉た「第2回満洲美術展覧会」の開催である。在満各美術団体からく互選された鑑査員(洋画,平島信,山城竹次,境野一之,東洋画,伊藤順三,甲斐已八郎,石田吟松)が出品総点数414点の内から西洋画163点,東洋画1920年代の満洲美術についてはほとんど知られていない。わずかに,1924年大平洋1935年二科展が満洲を巡回する〕,奉天に「アンペラ画会」と「東拓クラブ」という1930年代に入り,満洲事変(1931年)から「満洲国」建国(1932年)にかけての時-499-
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