35点を鑑別入選した〉〔満洲年鑑1933: 582〕。1930年代,国家の命を受け,政治支配の正当性を称揚する作品を制作した日本人画1937年〔康徳い5月,満洲美術にとって重要な展覧会が首都新京で開催された。この「満洲美術展覧会」の重要な点は,アマチュア画家たちが国家・行政の手を借りることなく,まったく自主的に運営・組織を行ったところである。後述するように,「満洲国美術展覧会」が1938年,満洲国民生部主催によって始められるが,これは「国展」という通称が明らかに示しているように,く建国精神を棒持し,民族協和の理想を顕現すべき新国家の美術文化の建設〉〔現勢1939: 469〕を目的とした,国家統制色の強いものであった。1932年の「第2回満洲美術展覧会」に示されたような自立的活動への希求は国家統制に反発を見せながらも徐々に懐柔され,創作活動の国家統制は進行し,いわゆるく国展イデオロギー〉〔現勢1939: 469〕が多くの画家たちの間に浸透して行くのである。家たちがいた。満洲との関連においては,満州国政府の依頼により同国国務院の大ホールに飾る「王道楽土」を描いた岡田三郎助が,その一例である。それは,<大きさは横十四尺,縦七尺。支那,満洲,日本,朝鮮,蒙古の五少女が仲よく手をつないだ図で,五族協和を象徴したもの〉であった〔年鑑1937: 122〕〔図1〕。このような,政治と芸術のきわどい関係については小論では論じ得ないか,とりわけ植民地における芸術の政治的機能について他日詳細に論じたい。満日文化協会主催・満洲国民生部後援による「訪日宣詔記念美術展」である。満洲国皇帝の訪日記念として満洲及び関東州在住の日満人の作品を公募し,天津,大連を巡回した。審査相談役として日本から松林桂月・藤島武ニ・安井曽太郎が渡満した。運営面においては大連・奉天・新京・吉林・ハルビンの各地の美術協会が積柩的に協力し,全国的に広く作品を集め網羅的に陳列出来たという。新京在住の西洋画家池辺貞喜によれば,この展覧会を契機としてく所謂満州国美術の分野が明確になりつ>ある〉という。<それは偏狭な郷土趣味でも無く,流行的な日本画壇への追従でもなく,国家意識への高揚と杜会的作家意識の反省からする一つの国家的美術への創造的意欲であった〉。しかし,このような理念を高々と掲げたく独自な満洲美術の行くべき道〉をはっきりと把握し実際に行動できるものはいないのだと池辺は記している。満洲在住画家はもちろん満洲の美術鑑賞家もく日本依存の迷夢〉の中にあるのであり,この迷夢から-500-
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