鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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覚醒しなければならないと池辺は主張している〔現勢1938: 494〕。術展覧会として「満洲国美術展覧会」(国展)が設置され,第1回展か開催された。主催は満洲国民生部であるが,実際の運営面では満日文化協会(1933年設立)がその任にあたった。会長は民生部大臣,審査相談役として前田青邦と藤島武二が招聘された。第1部東洋画第2部油彩画・水彩画,第3部彫刻・美術工芸,第4部法書の4部制とし,4部合計で搬入数805点,入選数351点であった。〔図2〕満洲国初の官設展覧会ではあったが,くこの展覧会が真に満洲国独自の表現を盛り立てるべく企画されたか否かに就いては展覧会終了後多くの疑問を残した〉という〔以下,引用は現勢1939: 469-4 71〕。なぜなら,<宣詔展に於ける地方美術委員会を無視し〉,<進んで美術家との連繋を持ち,理解せんとする努力と誠実〉を欠いたく開催当局者のあまりにも独善官僚的な〉運営は美術家の反発を招き,南満美術家協会などの不出品の要因ともなったからである。く建国精神を捧持し,民族協和の理想を顕現すべき新国家の美術文化の建設〉をめざすという国家の要請,すなわちく国展イデオロギー〉に対しては,少数の美術家が感情的にささやかな抵抗を試みただけで,多くの美術家たちが大勢の流れに無自覚に従属していった。それゆえ,わずかに残された写真資料から判断するに,その作品には〈日本の非常時局と満洲建国の精神に基く思想や表現様式に就いての苦慮と云つたもの〉は感じられず,凡庸な風景画・人物画を見ることが出来るのみである。ぎのように記している。〈聖戦下第三年を迎へた。満洲美術の一年は昨年に引つゞき不振の状態を持続し只僅かに新京に於いて満州国美術展覧会がその第二回を(中略)開催された〉〔現勢1940: 417〕゜1937年7月の旗溝橋における武力衝突を機に,日本は中国への侵略戦争を開始していた。満洲の地は「王道楽土」ではなく,まさに戦地であった。このような中で,1939年8月,新京において第2回満洲国美術展覧会が開催されたのである。審査相談役として,野田九浦と梅原龍三郎が招請された。搬入数は東洋画246点,西洋画533点であり,入選は東洋画59点,西洋画148点であった。『満洲国現勢(康徳八年版)』によれば,<一部にはなほ不出品作家もあり,審査員に日本内地の大家を委嘱することに対する非難などもあつて,完全に現代満洲の美術を網羅した綜合展覧会とは称し得られぬ〉〔現勢1941: 508〕ものであった。国家による美術1937年の「訪日宣詔記念美術展」を機に,翌1938年(康徳5)5月,新たに国営美翌1939年(昭和14・康徳6)の満洲美術を概観して,『満洲年鑑(康徳七年版)』はつ-501-

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