統制への不満や在地の美術家の軽視への不満などが広汎に存在したことがわかる。審査相談役野田九浦は国展を評して次のように記している。く無論作品のレベルを言へば低いものだといふところであらう。比較的油絵の方が進んで居る様に思はれるが,東洋画に於ける満系作家は清朝末期の亜流にこだはり,てんで日本画壇の隆昌,新傾向など知る由もなく,その点未だ,眠を貪つてゐるかたちであらう。/そもそも満州国には未だ,専業とする作家がない。満系の人は絵画をば,専業とするものではなく,貴人の手遊び,するものであるかの如く決めてゐる〉(野田九浦「満洲国美術展」,『美之国』第15巻第10号)。このような高飛車な批評がく日本内地の大家を委嘱することに対する非難〉を生み出す要因ともなったものと考えられる。り戻されたかのような状況が生れた。しかし,く事変が解決したのでもない。実情は戦線が伸びきって,ただ膠着していただけのこと〉だったのである〔二科:199〕。雄と案本一洋。搬入総数963点,この内,東洋画62点,西洋画116点,彫刻・エ芸42点,書94点,計314点が入選,展示された。満洲国美術展覧会は過去2回は新京でのみ開催であったが,第3回は奉天に移動開催されることとなった。また今回の国展にはく裸体画が殆ど見当たらな〉かったという〔現勢1942: 499〕。術界の中堅たるべき研究生の指導養成〉を目的として「新京美術院」を設置したことである。院長には川端龍子が就任,〈東京に同院東京分室を新営し,選抜されたる第一年度研究生十四名を次年度より留学〉させ,龍子のもとで学ぶこととなったのである〔年鑑1941: 87〕。東京分院は翌1941年4月に大森新井宿にある龍子の家の近くに建設され,日満の研究生13名が来日した。<画室から宿舎まで龍子設計の下に完成され〉,<教育方針は一切龍子の一存で始められ〉た。東京分院で油彩画を指導した鶴田吾郎によれば,くここで教育される者は,新京市からの留学生で,その費用一切は同市から支出され,修業は三年間,追って新京に本校舎ができた上は,修業後新京に戻って,優秀な者は本校にて,第二の指導者の資格を与えられる,という構想〉であったが,<太平洋戦争が苛烈の段階に追い込まれたために,結局留学生全部を朝鮮経由で送還し,自然解散の形になってしまった〉とい1940年(昭和15・康徳7),武昌・漢ロ・広東での戦闘が止み,一時的に平和が取1940年8月,第3回満洲国美術展覧会が開催される。今回の審査相談役は,青山義1940年において特筆すべきことは,この年10月満洲国新京特別市がく将来満洲国美-502-
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