1943年(昭和18・康徳10),太平洋戦争下において満洲は,独立国家としての体裁1943年8月,第6回満洲国美術工芸書道展が,新京の大同公園美術館で開催された。1944年,戦局は更に緊迫し,美術活動の方向は主として,〈戦力増強に向けられ,各「芸文指導要綱」に基づく改革によって,1942年(昭和17・康徳9)8月の第5回展からは満洲国美術展覧会の名称が「満洲国美術工芸書道展」と改められた。また,審査方法においても,<東洋畿・西洋蓋の区別をせず,綜合審査の方法〉を取った〔春山:357〕。これによって,当時の新聞は,く国展始つて以来の理想審査ともいへるほど公平慎重裡に行はれたため,常連古参株のうちに落選の憂目をみる番狂せも若干みられたが,実力を持つ新進が思ひ切つて引き上げられてゐる〉と報じている〔掲載紙名・掲載月日不明〕。〔図4〕〔図5〕を奪われ,文字通り戦争遂行のためのく兵姑基地〉と化していった。画家たちも戦争体制の中に組み込まれていく。<決戦下第二年を迎へて,満洲美術家協会の実践活動は,や、具体的な方向と戦時下に於ける諸策の国家的な要望に答ふるところ多かつた。即ち職域奉公としての段階を順調に踏みつ>米た〉〔満洲年鑑1944: 378〕。く戦時下に於ける兵姑基地たる満州国の増産推進の重大使命は,美術家を報道戦士として次々とかり立て〉〔満洲年鑑1944: 378〕ていったのである。画家たちは,林業弘報隊,開拓勤労奉仕隊,関東軍報道隊美術班,鉱工勤労増産弘報班等に動員され,「報道戦士」として絵筆を持たざるを得ない状況となった(注2)。審査貝は,山口蓬春,安井曽太郎,新海竹蔵であった。東洋画・西洋画・彫塑作品を合わせて搬入総数490点,うち入選数129点,<例年に無い厳選ぶり〉であった〔満洲年鑑1944: 380〕。種増産情況写生会が行はれ,これの報道展の開催または献納画展,決戦美術展等が多く〉開催された〔満洲年鑑1945: 423〕。画家には,<決戦下の文化的所産〉としてふさわしい作品が要請された。<風景を描くに努めても,又工場等戦力増強を取材し,戦時の国民生活に直接参与する時局作品を描くに努めても良い。結局は美術家の心構へにあるのである〉〔満洲年鑑1945: 420〕。戦争末期における精神論の典型といえようか。このような状況下で,1944年9月,第7回満洲国美術工芸書道展が新京において開催された。審査貝は昨年と同じく,山口蓬春,安井曽太郎,新海竹蔵の3人であった。東洋画46点,西洋画256点,彫塑19点が搬入され,それぞれ19点,73点,10点計102点が入選した。搬入数は確かに減少したが,く戦争下美術家の在り方に就いて反省がな-504-
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