注(1) 満州における美術活動を,小論では「満州美術」と呼ぶ。満州在住画家のなかにされ,国展其他の作品の一部には今迄にない真剣さが感じられるものがあった〉と『満洲年鑑(康徳十二年版)』記者は述べている〔満洲年鑑1945: 422〕。しかし,これは明らかに戦局の悪化による美術活動の停滞.疲弊を如実に反映していると考えるべきであろう。衛令が宣言された。例年,満洲国美術展覧会は8月か9月に開催されており,勿論この年の第8回展は開催されていない。作品は搬入されたのか,それとも早期に中止されていたのか,現時点では判断材料を持たない。8月18日,満洲国皇帝博儀が退位し,満洲国はここに正式に解体された。満洲の地で描かれた「満洲美術」作品,とりわけ満洲の地に根を下ろし制作活動を続けていった多くの画家たちの作品は戦火の中でその多くが失われてしまったのであろうか,現在われわれはこれを見ることができない。「満洲美術」はほとんどく空白〉のままに放置されている。しかしわれわれは,宮川寅雄が言うように,くあの空白の戦争下の美術の状況を充分に知り尽くしたい,その為の作業をしたい〉〔宮川:231〕と考えている(注3)。本調査は,その第一歩である。自らの美術活動を総体として「満州美術」と標記して論評する論者があり,日本国内の美術と区別してその特質を考察する上で有効であるので,われわれもこの呼称を,以降用いる事とする。寄本麟二は,寄本司麟という活動名で,プロレタリア美術家同盟中央常任委貝,本部展覧会部長,東京支部委員長,移動美術部隊長をつとめた活動家であった。として絵筆を取った。当時,満洲には転向を表明した左翼が多く渡っており,芸術における思想という問題,芸術と国家をめぐる問題を考える上で非常に重要な手がかりを与えてくれる。(3) この作業のひとつとして,「戦争画」について,『社会文学』第12号(社会文学会,1998年)に一文を寄せた。1945年(昭和20)8月9日,ソ連軍が満洲国に進行を開始,翌10日,満洲全土に防(2) この年のく報道戦士〉の中に,寄本麟二の名がある〔満洲年鑑1944: 378-379〕。1933年検挙され,3年近い未決勾留の後,転向。1943年満洲に渡り,<報道戦士〉-505-
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