鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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浄瑠璃寺初重壁画十六羅漢像について1 伝来と現状浄瑠璃寺三重塔は,境内の苑池の東側に位置する小高い丘の上にそびえ,現在は秘仏の薬師如来像を安置する(注5)。浄瑠璃寺の寺伝や三重塔に関する史料は,観応元年(1350)長算による書写本『浄瑠璃寺流記事』の記述が唯一のてがかりとされる。すなわち『流記事』によれば,浄瑠璃寺は永承2年(1047)に創建され,その後十二世紀半ばに摂政藤原忠通の第一子伊豆僧正恵信が入寺して以降,寺観を整えたといわれる。平治四年(1174)には,やはり忠通の三男九条兼実の揮奄による堂額を秘密荘厳院に掲げている。三重塔は,治承二年(1178)九月に北京(京都)一条大宮よりこの地に移建され,はやくも同年十一月十五日には移建の造功を終えたとする供養を行うが,実際の移築作業は,翌年三月に屋根に桧皮葺を行ったことで終えたようである。しかし,この塔が,一条大宮のいずれの寺院にあったかは不明である。なお,建築学の立場からみた本塔の様式は,移建時期よりあまり遡らない頃のものと考えられている(注6)。三間三重塔の初重内部には,扉に釈迦八相,柱に八方天や宝樹,天井や長押に装飾文様を描き,脇の間の八壁面は,腰長押で上下に分けた十六面(各縦約七八センチ,横約六八センチ)に十六羅漢像を表わす。壁面は,羽目板を横に並べ,その合わせ目に麻布の目張りを施し,全面に白色を塗って下地を整え,墨線で下描きした上に賦彩し,墨線で描き起こす。図様はいずれも損傷が著しく,というよりも画面によっては地塗りまでも剥落して板生地をあらわし,図様はおぼろげに痕跡を留める状態になっている。また落書や引っ掻いたような痕跡も散見される。ところが,丹念にみてゆくと,図様がよく留められている部分も見出され,特に板の合わせ目部分では当初の線描や彩色をうかがうことができる。後世の補筆と思われる墨線も認められるが,ひとまず図様自体を改変するものとは思われないことから,これらの図様をたどることにより,当初の羅漢像の図様を復原的に考察することができる。また,三重塔初重が中世期に大改造されていることは,先学諸氏の指摘されるところである。確かに,現在の柱や長押などに表わされた図様の形式化した描写や冷たい色感は,鎌倉時代のものとみなされ,改造の際に描かれたものであろう。扉の剥落の激しい釈迦八相についても,十三世紀の制作とする見解が示されている(注7)。-525-

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