錦論における現行の技術論に納得しかねるものが少なからず出てきた。わが国上代錦(7■8世紀)には緯錦と経錦が共に見出されており,経錦(蜀江錦)は古様とされ,唐代に織りにくい「経錦」から織りやすい「緯錦」に変わったと解説されている。これが定説化し,行われているが,実際のところ,この見方に素朴な疑問を持つのである。経錦の現在に知られる最古の出土資料は,戦国後期(前3世紀)のもので,その技術は完璧であり,なお正倉院にも同様に見出されている。そのようなことから,経錦の歴史は少なく見積もっても千百有余年の長きにわたっていることが知られる。そこでなお注目されるのは,この間,中国の錦は,経錦としてその基本の形(経糸効果)を変えていないということである。経錦は,中国の宿敵匈奴に巨萬の数量で贈与されていた。またローマにまで輸出されていた。盛んな生産量が知られる。これらのことから経錦が「織りにくい」ものであったとは考えにくい。中国の錦が経錦であったのは,それがとりわけ「中国的」であったからであろう。中国的というのは,中国のみがなしえていた「生糸」の恒常的な量産体制のことである。長く連続した切れない細い繊維,弾力があり,摩擦に強く,染色しやすいなどの生糸の特質は,経錦の糸としで恰好の適性を持つものであった。生糸の豊富な生産と供給が中国経錦を生み出し,悠久の年月その製作を不動のものとしていたのであろう。また緯錦が織りやすいものであるならば,なぜ中国は唐代をまたずに,その初めから緯錦技法としなかったのであろう。経錦を織るほどの技量を持つ中国人か緯錦技法をあみ出せないことはないという論もあったが,いまでは緯錦の西方成立に異論は出ていない。とすると,ではなぜ西方地域では経錦ではなくて緯錦(緯糸効果)であったのであろう。また中国の錦に先だって西方で錦技法が行使されていた形跡はない。すると西方ではどのようにして錦(紋織)技法を獲得したのであろう。これらが語られていないのである。このとき正倉院染織の花形である緯錦の製作技術が,実は,毛織物の技術であったという発言は,唐突なこととしてとらえられるであろう。しかし,西方で緯錦であったのは,その糸が羊毛など家畜の毛であったからであろうと考えている。短く,うろこ状の繊維の表面はぎらつき,摩擦にけばだち,傷みやすく,糸切れのおそれのある毛糸は,経糸として難がある。それゆえ経糸に負担をかけない織物作りをしていた。絨毯,タペストリー(つづれ織)をみればうなずかれよう。指先で色の着いた緯糸を経糸に絡ませていくだけのものである。単純なつづれ織があって複雑な錦技法が生まれてきたという説もあるが,これらの技術の発生の条件(環境)はま-536-
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