るで違っているのである。中国にはかつてつづれ織は行われていなかった,生糸になじむ織方でないからである。同様に毛織物圏には,中国の錦や綾を作る紋織技法はその発想からしてなかったであろう。つまり,使われる糸の性質にしたがって使い勝手のよい織方が生み出され,東西で,それぞれ特色ある織物文化を繁栄させていたのである。シリア,パルミラ出土の西方織物はそれをよく示していた。しかしつづれ織圏に,中国の錦や綾などの紋織が運ばれてくると,事情は一変したであろう。中国紋織の衝撃は相当なものであったろう。彼らのつづれ織は指先の仕事,それに対して中国錦綾の技術は機械的であったから,その生産効率の比較は論外であった。さっそく導入か関始されたであろう。早くも2世紀には始められていたのであろう。そのとき中国経錦と同じものとするには,彼らの糸(毛糸)がそれを許さない。そこで現実的な解決策として緯錦技法としたのである。すなわち模様を作る糸を経糸から緯糸に代えたのである。その3世紀前半の作品がエジプト,シリア,新渥ニャなど,生糸の非生産地に,毛織物で,また毛糸のように撚りの掛かった太い絹紡糸の錦で見出されている。緯錦は「経錦の組織を90度回転したものに同じ」と言われるが,これは適切でない。「経糸の設計」が経錦とはまったく異なるものになったのである。上代錦に関する現行の技術論の二,三をとらえてのことであるが,かなり再考の余地かありそうである。それでも従来の説が踏まれる最大の理由に,わが国や中国に根強い空引機の中国起原説がある。空引機は,京都西陣にジャカード機が導入されるまで用いられていた紋織機である。精絶巧緻な経錦製作は優れた織機によったに違いない,すなわち空引機である,それが西漸して西方に緯錦技法を誕生せしめた,と言うのである。ところが近年になって,欧米の研究者の間で,漢代経錦の空引機製作を疑問視する見解が出てきた。空引機では,上代染織論者が言うところの「織りにくい」どころか,製作不能と言うのであった。1960年から70年にかけてスタインSirAurel SteinやペリオPaulPelliotの旧資料がこの問題にしぼって蔽底的な分析研究の対象となった(注6)。結論は空引機は中国に発生したものとは考えられないと言うことであった。中国は殷代にさかのぼって「紋織技法」を持っていたことは確かである。しかしその紋織機は「空引機」と言えるものではなかったのである(注7)。生糸の非生産地に緯錦技法が生まれた。すると経糸の設計は経錦のそれとは異なるものとなった。地も紋も同じ経糸が使われる経錦とは違って,緯錦では経糸の機能が地と紋に分かれた。するとそこに,それまで人類が持ったことのないメカニズムが生-537-
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