鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
548/711

し‘゜み出されてきた。それが空引機であったのである。サミットすなわち我々のいう「複様三枚綾の緯錦」は,空引機をえて錦の世界技術になったのである。そして6世紀には古典的完成の域に達したと考えられる。そうしてビザンティン,ササン朝ペルシア,中央アジアのソグドでサミットが量産されるまでになった。このとき中国は世界の激変にもかかわらず旧来の技法を墨守していた。けれども西方錦はシルクロードを東伝して中国に及ぶ。すると西方様式の蜀江錦(経錦)か生まれた。もはや中国は西方サミットに無関心でいられなくなったのである。中国正史『隋書』は,開皇初年(A. D. 581)に勅命により何桐が「組織殊麗な波斯錦」に倣うものを製作したと記している(注8)。出来栄えはモデルをはるかに凌駕するものであったと言うが,これが中国製サミットの第ー作と言えそうである。唐代の書『歴代名画記』は,陵陽公鷹師綸が,唐草創の際に公式の乗り物がまだ充分に整っていなかったので,命を受けて益州(蜀)の大行台の職を兼ねて,その修復と製造の監督に当った。そのときこれら乗輿の装飾のためであったろう,彼は瑞錦,宮綾をも製作した。デザインもし,その模様は,陵陽公様と蜀人に謳われた,と記している。とすると,もはやサミットの世界的傑作と言うべき法隆寺四騎獅子狩文錦,正倉院の犀円文錦,大谷裂の花樹対鹿文錦,またアスターナの数点の錦や都蘭の対虎文錦など一連の特徴のある,しかし詳細の知られていないこれら7世紀の中国緯錦の様式は,この「陵陽公様」と言うべきか,そして製作は蜀に設営されていた宮廷工房であったのかと,いまそんな考察をつよめている。7世紀の中国で完整されたサミット製作は,空引機と共に,東大寺大仏開眼大法要会(A.D. 745)を目前にした日本にもたらされ,日本製サミットが実現される。院蔵の緯錦はそれゆえ大方が国産であろう。正倉院の緯錦,エジプト発掘の緯錦,ョーロッパ所在の中世緯錦など世界の錦はサミットの名のもとにルーツを同じくしていると言ってよい。すると経錦技法は廃絶してしまう。地も紋も経糸でするその織方は,それ自身自已完結的で,他への発展の余地がなかった。織機の機能も空引機以前のものであった。未完のまま悠久の年月続けられたのであった。もっぱら生糸ゆえであったろう。経錦は,事実,偉大な存在であった。しかし普遍性を持つものではなかった。中国にサミットが生産され,それに競うようにしてなお織り続けられていたことが正倉院の唐代経錦から知られるが,しかし,もはや緯錦製作が世界の趨勢であった。それゆえ亡び,今日なお復活を見ていな-538-

元のページ  ../index.html#548

このブックを見る