2. 日本の煎茶文化の展開2)。隠元禅師その人や一門の渡来僧が当時の中国の最新の学問・詩歌に造詣が深く田能村竹田(1777■1835)が『茶説図譜』(文政13年,1830)において「近日用うる所の葉茶は,相伝僧隠元の将来せりと。未だ知らず果たして然るや否やを。」と記すにもかかわらず,日本における煎茶文化の柑は隠元隆埼(1592■1673)と考えられてきた。中国福建の大禅林黄架山の住持であった隠元禅師とその一門の来日,四代将軍徳川家綱を大壇越とする黄繋山萬福寺の開創と臨済宗黄槃派(黄壁宗)という新しい教団の結成は文化史上の一大事件であった。また,唐様の個性的な書・正面性の強い肖像画・直接的な中国文人趣味・唐絵の怪奇的な表現など,山門の内は異境といわれた黄槃山萬福寺が当時の日本文化に与えた刺激は非常に大きなものがあった(注当代一流の文人であったこと,修学院離宮の造営で著名な後水尾天皇(1596■1680)の隠元禅師への帰依を初めとする黄槃宗の宮中との関わりの大きさなど,京都を中心とした江戸時代前期の知識人にとっては,江蘇〜福建省にかけての明末清初の文人文化は最新流行の学問・教養としてまさに強いあこがれの対象であった。初期の黄粟宗における煎茶については,隠元禅師の語録に見える詩偽の分析に基づいた大槻幹男郎氏の研究(注3)に詳しい。大槻氏によれば,隠元禅師の茶(煎茶)に対する考え方には,禅の精神そのものを示す悟りのための茶を基底に,香風・清音・風流・風雅などの文人的精神性を加えたものとみることができる。隠元禅師の隠居所であった黄槃山萬福寺松月堂には,隠然禅師所用の法具・文房具などとともに,隠元禅師将来・所用といわれる江蘇省宜興窯産の茶錨〔図1• 2〕が伝来し,隠元禅師の文人趣味のひとつに煎茶の喫茶があったことがわかる。また,隠元禅師をはじめとした渡米黄槃僧達は,明末清初の文人趣味に強く影響を受けていたため,彼らの詩偶や揮篭は当時からもてはやされ,近代に至る煎茶人の間でも賞玩された。隠元禅師その人が「煎茶」の喫茶法を広めるのにどれほど積柩的に尽力したのかは今のところ明確にはなしえないが,おそらくは,明末清初の中国の文人趣味が黄業山萬福寺を媒介としながら京都の限られた上層階級に広まっていく間に,「煎茶」という抹茶に変わる新しい茶の飲み方が日本における文人趣味の中に紹介・吸収されていったと考えられる。だからこそ,小川後楽氏が指摘(注4)するように,後水尾天皇第六皇子で,天台座主を歴任し,学芸で名高い晃恕法親王(獅子吼院殿)が「一生薄茶もまいらせず,煎茶のみなり」と近衛家煕の日記である『愧記』享保10年(1725)正月九日-558-
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