鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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の条に記されるような公家杜会をとりまく京都の知識人層の状況が見て取れるのである。一方,大槻氏は,黄槃禅院の煎茶の精神性とその拡がりを黄槃僧月渾道澄(1636坂を中心とした文人杜会に煎茶を広く普及させるための基盤作りをはたしていたのである。「煎茶」の喫茶法の日本への紹介において黄槃宗と萬福寺の果たした役割は大きいが,しかしそれはあくまで中国文人趣味の一つとして位置づけられるものであったからこそ,煎茶の祖については隠元禅師が黄業禅院の象徴として特に注視されるようになったのであろう。こうした喫茶としての煎茶の黎明期を経て,売茶翁高遊外・大枝流芳(生没年不詳)・木村兼匝堂(1736■1802)・上田秋成(1734■1809)らによって,煎茶を媒介とした文人趣味の文化が成立した。特に後肌の煎茶人たちに精神的に大きな影響を与えたのは,売茶翁高遊外であった。売茶翁高遊外の事跡については谷村為海氏(注5)などの研究に詳しいが,彼は中国唐代の慮仝(790?■835)の『走筆謝孟諌議寄新茶』(筆を走らせて孟諌議の新茶を寄せるを謝す),いわゆる「茶歌」の中の一節から,六椀目の茶を喫した時の「仙霊に通じ,ただ両脇に清らかな風が生ずるのを感じる」という境地を煎茶の喫茶精神の理想とし,その精神性の象徴に「清風」という言葉を選び出した。売茶翁は京都・大坂の知識人を中心とした交友を通じて「崎人」の一人としても位置づけられ,煎茶という新出の喫茶趣味を媒介として京坂芸苑のキーマンとなったのである。その意味では,近世・近代の煎茶文化の祖はまさに売茶翁高遊外であったといえよう。一方,まとまった煎茶書としては最も古い『青湾茶話』(宝暦6年,1756)を著作刊行した大枝流芳,『売茶翁茶具図』を著し,煎茶の同好を誘って清風杜を結成し,文人世界の大パトロン的存在であった木村簾煎堂,『清風瑣言』(寛政6年,1794)• 『茶瑕酔言』を著し,煎茶器の好悪の批評や自らも茶器の制作を試みた上田秋成らの主導によって,煎茶は京都・大坂の市井の知識人(文人)の身につけるべき趣味の一つとして確立したのである。「文人」と呼ばれた煎茶人達は,売茶翁が取り上げた羽化登仙にたとえられる「清風」の境地に達するために「俗なること」を嫌い,その指向の中から「去俗清風」「脱俗清風」「離俗清風」という言葉が派生したのである。ここにおいて,明末清初の文人・歴史家である張岱(1597■1689)の『陶庵夢憶』にみ■1723)の「煎茶歌」にとらえ,その精神は黄架宗から還俗した売茶翁高遊外(1675■1763)に受け継がれたとしている。いわば,黄槃禅院の煎茶は,売茶翁が京都・大-559-

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