鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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られるような,茶や水の善し悪し,骨董や文房具の愛好,音曲(琴)や劇などの上手下手,宜興窯の煎茶器の好悪などに自己のアイデンティティを主張するような,紹興地域の中国文人の煎茶を含めた文人趣味のありさまとはいささか異なる精神性が,日本の煎茶趣味に付加されたのである。そして,秋成以後の文化文政期以後の文人達にとっては文房に煎茶の喫茶趣味のあることは当たり前の時代となっていくのである。中国趣味あふれる(と当時の人々が思っていた)道具に囲まれ,煎茶を喫しながら書画や音曲を鑑賞し,学問・芸術談義に同好の士と交わる生活こそ彼らの理想となったのである。単なる趣味だけではない文化現象の中枢として煎茶は位置づけられるようになったのである。その中心的存在は田能村竹田であり,頼山陽(1780■1832)・青木木米(1767■1811)らとの交友を経て,富裕な商人・中下級武士・教養の高い僧侶・儒者や医者などの学者・市井の文人画家などの人々に,煎茶を媒介とした日本的な文人文化は全国展開してゆくのである。こうした煎茶文化の裾野の広かりは,桃山時代以来の「茶の湯」の影響を受けながら,様々なマニュアル本としての煎茶書の刊行にもつながり,最も日本的な展開として,大坂の田中鶴翁(1782■1848)・京都の小川可進(1768■1855)によって煎茶の家元としての宗匠茶が誕生した。ここにおいて「交友関係の中で去俗清風を切磋琢磨する煎茶」とともに「教え教わる煎茶,師弟関係を内包する煎茶」が誕生するのである。幕末以降昭和初期までこの二者は複雑に絡み合いながら煎茶の世界を形作ってゆくのである。幕末から明治・大正・昭和初期の近代の煎茶文化は,煎茶人口の裾野の広さを確たるものとするための宗匠茶の存在を基底としながら,伊藤博文・木戸孝允らの元勲としての政治家,岩崎家・住友家などの政商や財閥の企業家,山中暮直(吉郎兵衛)• 児島米山居(嘉助)などの中国古美術の貿易品を商う古美術商,山本竹雲・田近竹祁や横江竹軒・湯川七石などの審美の基準を切磋琢磨した鑑識者や収集家などによる大寄せの大煎茶会(著語)を中心に華々しく展開してゆく。その本格的な喝矢であり,かつ最も基本となるスタイルを確立した大煎茶会(著班)は,江戸時代も押し詰まった文久2年(1862)4月23日と7月16日に,大坂の青湾(網島)一帯で当代一流の文人画家であった田能村直入(1814■1907)の主幹によって開催された「青湾茶会」という大煎茶会(著芭)であった。これらの大煎茶会(著諮)のありさまは,茶会の後に刊行された著諮図録によって一定跡付けることができる(注6)。細かい論証は紙-560-

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