鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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゜宜興窯産の確実な日本の伝米品で最古のものは前述の黄粟山萬福寺所蔵の紫泥茶錨を貼り合わせた形態のものである。『青湾茶会』第3席捜腸•第5席養和堂ではほぼ(1629)埋葬の墓碑銘伴出〉出土の大彬銘三足後手紫砂壷(夫墓),映西省延安市楊如Vヽ産の茶注の受容の変化について検討を加えたい。茶を注ぐ道具には茶葉の種類に対する使用方法・煎茶書・箱書き・流派などの相違によって,「茶錨」「茶罐」「茶:注」「著注」「茶瓶」「著瓶」「茶銚」「急焼」「急尾焼」「急須」などの様々な用語が用いらている。特に喫茶法の変遷によって茶注は形態・名称を変えていった。初期の段階には涼炉や火炉の上で茶を煮たために湯沸をかねたものとして,「茶錨」「茶罐」「急焼」「急尾焼」などの用語が用いられたが,文化文政期以降滝茶が盛んになって,宜興窯産の小型の茶注や中国南部産の文政渡りと称される湯罐が多量に舶載され,青木木米を初め湖東や万古などの国焼でも生産が始まると,茶注は湯沸の機能がなくなって茶葉の中に湯を注いで茶の成分を出すための道具となり,「茶銚」「急須」の用語もあわせて使われるようになった。これらを総称する用語は明確に規定されていないので,本稿では「茶を注ぐための道具」という意味の「茶注」という用語を総称として用いた〔図1〕である。隠元禅師が承応3年(1654)に携えて来朝したと伝えられ,隠元禅師の隠居所であった松月堂に伝わったもの。高14.5cmの中形の後手の茶注で,太鼓胴形の胴部に少し甲盛りのある蓋をつけ,底部はわずかに削り込まれ,器表には梨皮泥のような黄粒がうかぶ。この形態は,江戸時代後期に流入した宜興窯産の茶注とは形状を著しく異にし,中国本土にも同様な作例はない。隠元禅師の隠居所であった松月堂に伝わった宜興窯産の伝米品はもう1点あり,こちらは隠元禅師所用と伝えられる紫泥大茶錨〔図2〕である。高19.3cmの大振りな後手の作品で,球形の胴部には漢詩が彫り込まれ,鉦の形状も円筒形に円盤状のもの同形の大振りな作品が水注として使われている。なお,漢詩は「茶熟清香間/忘到一可喜/時大彬倣古」と読め,時大彬という明代後期の作者の作品としている。時大彬の銘のある作品の中国での出土例には,江蘇省江都市丁溝鎮く万暦44年(1616)銘地券伴出〉出土の大彬銘六角後手紫砂壷,江蘇賞無錫県華師伊夫婦墓く崇禎2年桂墓く崇禎15年(1642)合葬の墓碑銘伴出〉出土の大彬銘上手紫砂壷(茶注)がある(注9)。大彬銘の紫砂壷(茶注)については,時大彬の在世中とはぼ同じ時代の遺品であり注目されるが,いずれもやや大ぶりで装飾の少ない端正な作品である。この点-562-

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