から本作品もこれら大彬銘の作例に通じるものがある。なお,黄架山萬福寺に伝来するこの2点の作品には,図1には底部に,図2には胴部下半の底部付近に黒く煤けた部分があり,このことは黄槃禅院における中国伝米の喫茶法では,宜興窯産の茶注でも火にかけて「茶を煮」ていた可能性を示唆している。木村兼蔽堂筆の『売茶翁茶具図』には,明らかに宜興窯産であることを示唆する作品はない。同帖には唐山製の「急焼」(湯錨の機能も備えた横手の把手のあるもの)と記載された作品が伝米するが,それはいわゆる文政渡りの湯錨と同様に中国南部の作例ではないかと考えられる。ただし,売茶翁所持と伝える宜興窯産の作品としては,青木木米による「陽羨時大彬作」の箱書きがあり,聞中禅師に「唐山紫泥茶甑」と記された作品が谷村為海氏によって紹介されている〔図3〕(注10)。注口部の鉄砲ロ,胴部の獅子の浮彫,蓋の獅子鉦などの点で図2とは異なるが,本器も球形の胴部を持つ後手の茶注で,高12.5cmのやや大振りな作品である。さらに,煎茶書などの書籍の中では,上田秋成の『清風瑣言』(寛政6年,1794)に「茶壷図見真音彙韻」として掲載されたもの〔図4〕が形態の点で宜興窯産の可能性があるほかは,田能村竹田の『竹田荘茶説』(文政13年,1830),天保年間の椿椿山の日記(板橋区立郷土資料館蔵),深田百信(精ー)の『木石居煎茶訣』(嘉永3年,1850)になるまで宜興窯産と考えられる作品は,登場しない。おそらく17■18世紀までの急焼的な利用の中では,宜興窯産の茶注はあまり中心的な道具としては使用されていなかったと考えられ,宜興窯産の大振りな茶注は「水注」に転用されていったのであろう。文化文政年間になって滝茶が次第に盛んになるにつれて,茶注の使い方は,葉茶を入れ,湯錨で沸かされた湯を注いで用いられる様になり,再び宜興窯産の作品が使用されるようになってきた。幕末〜明治初期には,宝珠形・袋形・広口形・茄子形・瓢形・壷形・水平形・倶輪珠形などの形態の作品が一通り登場する。そのありさまは『青湾茶会図録』(文久3年,1963)や『青湾著酷図誌』(明治8年,1876)などの初期の著諮図録や奥蘭田の『名壺図録』(明治9年,1876)などで明らかである。ところで,この時期の宜興窯産の茶注については,特に2種類の茶注について取り上げたい。〔図5〕は留倶口と呼ばれる下向きに液体を注ぐ注口部を持つ茶注である。本器は京都の小川流の祖である小川可進所持の作品で,本格手前と呼ばれる小川流の正式な手前の中で使用される茶瓶(茶注)であり,季節によっては火にかけることもある-563-
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