鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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9〕,宝珠形と一文字蓋の2形態を持つ「萬豊順記」銘の茶注〔図10• 11〕,壷形でほは『青湾茶会』でも第3席捜腸•第5席肌清•第5席肌清副席江易杜に使用されておや印銘など様々である。また,『青湾茶会』でも第1席喉潤•第3席捜腸•第4席発汗•第3席任雲杜提藍席•第6席清心窯にて使用されており,評価の高いものであっ高7.4cmの盛り蓋の壷形茶注である。胴部の中程から水平に出てすぐに垂直に曲が作品である。この留倶口の形態は液体を注ぐ上では理にかなったもので,手前の上では扱いやすいものであり,留倶銘作品には本器のような詩文を刻したものが多いため,当時の中国本土での評価も高い作品であったと考えられる。留倶製とされる作品り,この時期を中心に特に好まれた宜興窯産の茶注であった。ところが,明治10年以降この注口の形態は,やや下向きに傾く注口端部の形態に対して「口作りが卑しい」と評価され,あまり賞玩されなくなる。日本が中国を足がかりに世界に躍進していく一種男性的な時代にあって,こうした形態が当時の煎茶人の美意識からははずれていくものと思われる。〔図6〕は底部に「平正一片心孟臣」「一勺水之多孟臣」の刻銘が施され,各々る注口部は,蓋からの茶渋の跡からもわかるように,注ぐ器としてはあまり理にかなったものではなく,手前の上では扱いにくいものだったと思われる。孟臣銘の茶注は,形態とともに朱泥・紫泥・烏泥・梨皮泥・黄泥など多彩な素地があり,銘も刻銘たことがわかる。つまり,孟臣銘の茶注は昭和初期まできわめて評価の高いものであったにもかかわらず,その多様性から作品そのものに対する一定の美意識にのっとった評価ではないことがわかる。むしろ,恵孟臣という明末宜興窯の名エの銘が存在する作品ということで評価が高かったものと考えられる。また,奥蘭田の『名壺図録』では,花丼形〔図7〕・平筒形・六稜形・菊花形〔図8〕・方形など,『青湾蓉酔図誌』では梅花形など,明治10年以降の大煎茶会(著懇)にはあまり登場しない奇抜な造形性をもつ作品も収録されている。こうした様々な形態の茶注は中国では今でも評価が高いことから,おそらくは明治期になって煎茶に使える本流としての中国文物を求めるに際して,まず初めに中国本土での評価に基づいた作品選定がされ,明治10年以降の煎茶人の美意識に則さないものについては,あまり目に触れなくなっていったのではないかと考える。明治10年〜昭和初期の最も煎茶が盛んになった時代の宜興窯産の茶注は,胴部が球形で一直線に斜め上方にのびる鉄砲口と呼ばれる注口部を持つ後手の倶輪珠茶注〔図-564-

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