ぼ45度の角度で注口がのび,「三友居」の刻銘を底部に持つ後手の茶注〔図12〕の3者が決定的な評価を受けるようになる。〔図9〕は,外箱に坂田脩軒の識が,内箱に「口月誉生」所蔵の箱書きと明治11• 13年の山本竹雲の識があり,大正5年の井上熊太郎の書き付けが伴う茶注で,黄色い砂粒が素地に練り込まれた梨皮泥といわれる胎土で作られた作品。更紗や刺繍などの刺覆が5つ伴い,高6.9cmの小さな茶注である。このような小型の倶輪珠の茶注には梨皮泥のほかには,赤い素地の朱泥があり,この時期の茶注の中では,鉄砲口の男性的な雄々しい形態から,評価の上で首座をしめる。〔図10〕は紫泥の素地の宝珠形で,底部に印銘があり,宝珠形としては高6.3 cmの小振りなもの。朱泥の宝珠形の茶注は江戸時代からの舶載例が多いが,紫泥の萬豊順記銘のものはこの時期の舶載が多い。〔図11〕は,山本竹雲の識があり,池田候・大辻家伝米の一文字蓋の作品で,高4.8cmの小振りなもの。一文字蓋の萬豊順記銘の茶注は紫泥と烏泥のものが賞玩されるが,ほとんどが本器のような小型のもので,おそらくはこの時期の舶載品であろう。〔図12〕は高6.5cmの作品。「三友居」銘のものは明るい発色の朱泥のもので,壷形・平形・宝珠形があり,本器のような壷形のものが最も評価が高い。「三友居」のほかには「伴玉人」「楽文人」「作主人」「玉川珍」「玉人居」などの刻銘のものもある。これらの茶注に共通する点は,従来の作品に比べて加飾か少なく,形態が端正で技巧が精緻な小振りな作品に基本があり,特に鉄砲口などのように男性的な雄々しい気品を酸し出すものといえよう。以上,宜興窯産の茶注の受容の変遷を述べた。その概略をまとめると,初期の黄槃禅院の中では明末清初の大振りな作品が,明末清初の中国の喫茶法に則って使われ,売茶翁以降には日本流の喫茶法の改良に伴って,中国南部産の器壁の薄い「湯錨」様の作品が用いられて,宜興窯産の茶注はあまり使われなくなり,あるものは「水注」に転用されていった。文化文政期以降には様々な形態の宜興窯産の茶注が舶載され,滝茶の道具としてその評価を高めていくが,そのなかでも,留倶口の作品については幕末から明治初期に賞玩され,孟臣銘の作品については名エ恵孟臣へのあこがれによって評価が高まった。明治初期には中国本土の評価に基づいた作品が輸入されるが,明治10年以降は大煎茶会(著燕)における美意識の洗練によって留侃口の作品とともに装飾性豊かな作品や奇抜な造形性をもつ作品は評価が下がり,変わって倶輪珠形の茶注・「萬豊順記」銘の紫泥や烏泥の茶注・「三友居」銘に代表される朱泥の壷形の茶注の評価が高揚したものと考えられる。それらの選択にかかる審美の基準は,端正・-565-
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