4.むすびにかえて精緻・小振り・雄々しい気品であった。江戸から明治・大正期をとおして,中国文物の最初の舶載にあたっては彼の地の評価に準じながらも,その受容を通じて自らの審美眼に沿った装飾の少ないシンプルな造形性の作品を選択するようになっていったのである。ところで,こうした明治・大正・昭和初期までの煎茶文化の高まりは,なぜに急速に衰退したのであろうか。今日の私たちにとっては「煎茶」にまつわる文化が「茶の湯」に比すほどに豊かであったことなど,ほとんど知識の外である。大煎茶会(著語)の量と質の点からの検討では,それは日露戦争(明治37• 38年,1904• 05)ごろから衰退の兆しを見せ,昭和初期の日中戦争の勃発(昭和12年,1937)を前に凋落する。特に大正14年(1925)大阪美術倶楽部で開催された昌隆杜の創立五十周年記念の大煎茶会(著語)は,近代煎茶における美意識の高揚の頂点を示しているとともに,それはまさに夏祭りの最後を飾る大花火大会のように,その後の煎茶文化の衰退の暗闇の深さを象徴している。煎茶文化のリード役であった日本の知識階層の思想と趣味は,こうした時期を境に,中国至上主義から国粋主義へ,明治期の煎茶から大正期の茶の湯ヘ・文人画から琳派鑑賞へと,つまり趣味の基軸も中国文物中心から日本の伝統的な文化への再評価へと,まさに好対照を見せるのである。煎茶文化の範疇において育まれた作品の中で,依然としてその審美的な評価が戦後も衰えなかったものは,前記展観席を飾った作品群,例えば中国書画・日本の文人書画・中国殷周青銅器・中国観賞陶磁器であり,これは煎茶の道具の世界から脱して純粋な観賞美術作品として賞玩されてきたのである。つまりは観賞としての展観席のみ生き延び,新たな美的空間の創造としての茶席は衰微したともいえよう。ところで,唯一煎茶道具の中では木米陶のみが生き残る。これもまた,江戸時代の京焼の変遷の上で重要な転換期を画した作品として評価されてきたからである。その意味では,木米陶についての検討は,江戸時代後半の外来文物(主として中国文物)に対する租借と理解(ある意味では誤解)を解明する大きな「導きの糸」となる可能性が存在し,今後の大きな課題の一つといえよう。しかし,その「導きの糸」は煎茶の隆盛と衰微の様相という時代背景を抜きにはたぐり寄せることは不可能であろう。-566 -
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